大和但馬屋読書日記

この日記は

2007年07月10日火曜日

[][][]仏教と日本人(阿満利麿,ちくま新書)

仏教と日本人 (ちくま新書)

仏教と日本人 (ちくま新書)

一言、面白かつた。僅か四頁分の「はじめに」を読んだだけで元は取れた気がした。本文は言ふに及ばない。

今までも何冊となく本書の書名と似たテーマの本は読んできたが、それらはどうしても教科書に載る様な「大きな歴史」の解説に終始しがちであつた。もちろんそれはそれで知つておきたいことではある。本書の面白みは、それらの「大きな歴史」が如何にして日本人に受容され、市井の文化に組込まれていつたかについて徹底的に考察してゐるところにある。その根底として、柳田國男民俗学の影響が大きくみられるやうであり、そろそろ自分も柳田國男を読んでみたくなつてきた。

この種の本を読み、日本がどのやうな文化を育んできたかを考へれば考へるほど、ワシは「宗教」といふものが分らなくなる。分らなくなるといふのは、つまり簡単に割切つて切り捨てられなくなるといふことだ。自分が他の一般的な人々と同様に特定の宗教に深く帰依する可能性が今のところ殆ど無いからこそ、余計にさう思ふ。まさにその心情をテーマとした本が同じ著者により出版されてゐる様なので、そちらも是非「あはせて読みたい」。

2007年07月04日水曜日

[][][]「感動」禁止!―「涙」を消費する人びと(八柏龍紀,ベスト新書)

書店でタイトルだけに惹かれて買つた本。

通読した印象としては、なんだか散漫な内容だと感じた。それもその筈で、あとがきによると東大の自治会主催による自主ゼミの講義録を再編したものらしい。「消費社会」をキーワードとし、所謂「団塊の世代」が青春時代を過した学園紛争とフォークソングの時代から現代までを文化史的に切り取つて、時代の「気分」を再確認するのが本の主軸で、その中で「感動」といふものが商材として扱はれる様になつたことを思ひ出した様に批判的に論じてゐる。

ワシも少し前にダイアリーで感動なんてものはもはや経済を語る指標の一つにすぎないつてこつた などと吐き捨てたことがあつたから、本書の主旨に大きな違和感はない。しかし、一つの論として本書を眺めた場合、随分と論理が粗雑である様にも感じた。嘘は言つてないんだらうけど、それとそれを結び付けるの‥‥? とか、なんでそこだけクローズアップするかな? とか、そんなのが色々とある。一年前に大騒ぎした「シューティングゲームにおける戦闘美少女の歴史」関連ほどではないが、ある種それに似た種類のモヤモヤが。とりあへず「昭和二十八年生れの著者の視点による昭和・平成文化史」として捉へておくものとしたい。

それにしても、これほど扇情的な書名をつけ、帯の惹句に「小泉劇場」と例を挙げておきながら、あの「感動した!」発言について本文中で一切触れられてゐないのはどうしたことか。時代が醸成した気分が「感動」の大安売りとなつて顕れたそのひとつの象徴としての小泉発言を採上げないのは、わざとだとしたら意味が分らないし、忘れてゐたのだとするとそれこそ前段で挙げたワシの疑問を象徴的に顕してゐると思ふ。随筆としては読めるけれども、論としては随分と精度が低い。

表紙の帯とAmazonの商品説明だけを読めば本書の内容としては十分で、それ以上の理解や情報を得られる訣ではないので、読んで損したとまでは思はないけれど、他に思ふこともないかな。

2005年07月05日火曜日

[][][]新宗教と巨大建築(五十嵐太郎,講談社現代新書)

新宗教と巨大建築 (講談社現代新書)

新宗教と巨大建築 (講談社現代新書)

近世末期以降に勃興した日本の新宗教を題材にし、その教義を具現化したものとして建築を捉へて解説を試みる本。

なかなか面白かつた。関西出身なので幕末期の天理教金光教大本教などがそれほど遠い世界のことでもない割に、ではそれらのことをどのくらゐ知つてゐるかと改めて問はれれば、親類縁者に信者が居ないのでほとんど何も知らないことに気付かされた。精々、奈良で親類の結婚式に出たときに同じ建物で挙式のあつた別の家の新郎新婦が、天理教式に則つて黒い着物を着てゐたのを見た程度か。

本の前半を占める、その天理教の教義と建築に関する部分は読んでゐてある意味興奮した。なんと壮大な構想であり、しかもそれが着々と完成に近づきつつあるといふ。

Google マップで表示させてみた。この中心点が天理教本部で、それを四角く取り囲む様な建物が見える(参考:【お知らせ】)。いつかこれが完成すれば、完全に四角い宗教空間が出来上がるといふのだ。語彙の不足を呪ふしかないが、それにしても面白いではないか。

新興宗教がどの辺りから際物扱ひされなくなり社会的な立場を得られるやうになるものかと考へると、それは概ね教祖が死んで教団が組織的な安定を求めるやうになつた後だらう。それにはやはり数十年といふ時間が必要で、それを乗り越えた新宗教の持つ迫力のやうなものを感じた。

2005年04月29日金曜日

[][][]歴史学ってなんだ? (小田中直樹,PHP新書)

歴史学ってなんだ? (PHP新書)

歴史学ってなんだ? (PHP新書)

その名の通りの内容。歴史学の定義、歴史学と社会との関り方や位置付けなどを著者なりの視点で述べる。

面白かつた。読み易く分り易い語り口で、話題そのものは一見あちこちに寄り道もするが、ところどころに鋭い指摘が含まれてゐる。歴史学に留まらず、「物の考へ方」の変遷の概略を知るのにも良い。

「歴史学は社会の役に立つか」あるいは「社会の役に立たねばならないか」といふ問掛けは、歴史学だけでなくあらゆる学問、あらゆる文物に共通する。これに対する著者の答は以下のやうなものだ。

直接に社会の役に立とうとするのではなく、真実性を経由した上で社会の役に立とうとすること。集団的なアイデンティティや記憶に介入しようとするのではなく、個人の日常生活に役立つ知識を提供しようとすること。このような仕事に取り組むとき、歴史学は社会の役に立つはずだ

これには「役に立とうとするほうがよいに決まっているが、そうしなければならないとまではいえない」という、ちょっと中途半端なものになりますといふ前置きが付く。全く、歴史学だけの問題ではない。何につけても、近視眼的な即効性にばかり重い価値を求めると、物事を歪ませてしまふものだ。

2005年04月26日火曜日

[][][]「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人(青木人志,光文社新書)

「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人 (光文社新書)

「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人 (光文社新書)

明治以降、西洋の近代法が日本人にどう受容されてきたかを振り返る。

タイトルにある「大岡裁き」はこの本の中では全く重要でなく、タイトルに惹かれて本書を手にしたオレには肩透しの感が否めない。

ただ、西洋(といふかヨーロッパ)で培はれた近代法、と一括りにはできないほど個々に成立の事情も性格も全く異るフランス法イギリス法、ドイツ(プロイセン)法などを、明治日本の法学者達がどの様に学び、取り入れ、また棄てていつたかを概観できたのは収穫だつた。

「大岡裁き」を例に、日本の裁判と欧米のそれとの違ひを浮彫りにする第四章がこの本の主題だと思ひたいのだが、ここは少々煮え切らない。各説を取上げて紹介しながらも、著者の態度はそれぞれの「ええとこどり」をすれば良いではないかといふ印象で、実際的ではあるがサプライズには欠ける(そんなものを求めるオレが悪いだけだ)。

印象に残つた点をいくつか箇条書き。

  • 欧州諸国語の「権利」(英語でright)といふ言葉には「正」「直」「法」といつた意味が内在してゐるのに、「権利」といふ訳語からはそれらの意味が削ぎ落とされてゐる。これが日本人の権利意識に影響を与へてゐるといふ一説(P.115-)
    • 「権利」といふ言葉がなかつたからといつて、例へば明治以前に日本人に権利意識がなかつた訣ではないといふ反論(P.119-)※個人的には、この反論は問題をすり替へてゐると思ふ
  • 日本に近代法をもたらした御雇外国人ボアソナード博士の建議により明治前期に拷問が廃止されたが、ボアソナードの眼前で拷問を行つてゐた司法官は明治後期になつても彼のことを「法律家に似合ぬ慈悲深い男」と揶揄してゐたこと(P.128-)
  • 昨今流行の「自己責任」といふ言葉について、他者にそれを求めるのは自分の責任回避の発露でしかなく、「自己責任」の本来の意味からは逆行してゐるといふ著者の指摘(P.197-)

あと、どうにも引掛る記述を引用する。

不継受と廃棄の法制史

読者にはふたたび第一章の穂積陳重の姿の変遷を思い起こしていただきたい。マゲから一気に蝶ネクタイへ。このような柔軟さは、日本の法受容史を貫く顕著な特質のひとつだろう。

明治維新以来、たかだか三〇年のうちに、幕府法・藩法が棄てられ、律令が棄てられ、せっかく新しく学んだイギリス法も棄てられ、同じくフランス法もかなりの部分が棄てられ、ついには頭の古い司法官そのものが棄てられた。

そして、このあと第二次世界大戦後にも、またたくさんのものが棄てられることになる。わたしたちの先達は、その時々の状況に合った西洋法(学)を貪欲に摂取する一方で、実に潔く多くのものを棄てつづけてきたのである。

(略)

明治人たち、少なくとも国の中枢にあって西洋的近代化を推進した人たちは、おそろしく柔軟性があり、すさまじく進取の気象(ママ) に富んでいたというべきである。

「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人:P132-133

今もかうしたことが日本人の美点として語られるのである。

明治から昭和二十年代にかけての日本人が、生き延びるためにさうせざるを得なかつたといふのは歴史的な事実だ。しかしそれは、さうせざるを得なかつただけのことであつて、それ以上でも以下でもない。少なくとも、諸手を挙げて称揚すべきことだとは思はれない。「要らなくなつたら棄ててまた新しいものを取入れればよい」といふのは一個人の世渡り手法としては有効であつても、では取入れられるものがなくなつた場合にどうしたものかといふ問ひには答へられないだらう。今あるものが実情に合はなくなり、手本にすべきものも無くなつた時に、「旧いから」といふ理由だけで棄てられたものの中から新たな価値を見出せるだらうか。オレはさうすべきだと思ふが、今のところそんな考へは到底世の中には受容れられまい。つまるところ、何でもかんでも棄てられると思つたら大間違ひだぞ、と。

あと、終章はまるまる駄文。どうもこの著者は空疎な譬へで言葉を飾りすぎる嫌ひがある。古い鏡は今や新しい光を宿し盛んに輝いているからであるとか、読んでるこちらが恥かしい。

2005年04月14日木曜日

[][][]司法のしゃべりすぎ(井上薫,新潮新書)

司法のしゃべりすぎ (新潮新書)

司法のしゃべりすぎ (新潮新書)

全ての裁判において、判決文には判決理由を書くことが義務付けられてゐる。現役判事である著者はこの判決理由を「実定法に基づき主文(判決文)を導く法理論的過程」であると定義づけ、判決理由文のうちこの定義に沿ふ部分を「要部」、定義から外れた部分を「蛇足」と判定し、世の判決文の理由欄が如何に蛇足に満ちてゐるかを告発する。

著者が掲げる架空の例を要約すると、こんな話だ。

V氏殺人事件の犯人として起訴されたY氏は、証拠不十分で不起訴処分を受け、釈放されて社会復帰した。その後二十年が経ち、被害者V氏の子X氏がY氏に対し、親を殺したとして損害賠償請求の訴へを起した。Y氏は殺人の事実の否認と、損害賠償の除斥期間の経過を主張した。裁判所は時効の過ぎた殺人事件の有無について三年間も審理を行ひ、最後にある判決を下した。判決文の主文には「損害賠償請求を棄却する」とあり、X氏の全面敗訴となつたが、Y氏はその判決書類を見て仰天した。その理由欄には、「Y氏は二十年前に殺人を犯したが、損害賠償請求の除斥期間が経過してゐるのでこれを棄却する」と書いてあつた。Y氏はこの判決理由を不服として裁判所に控訴を届け出たが、「裁判に全面勝利してゐるのだから、控訴によるY氏の利益が存在しない」としてこれは却下され、Y氏は過去に殺人を犯したといふ濡れ衣を一生背負ふ羽目になり、X氏はY氏が犯人だと認定されたことに満足した。

著者は、この「Y氏は過去に殺人を犯したかどうか」について述べた部分を全て蛇足だと断じる。なぜなら、損害賠償の除斥期間の経過はX氏の訴へが起された時点で明らかな事実なのだから、第一回目の口頭弁論の時にでもこれを理由に請求を棄却できたはずなのだ。なのにその後三年間に渡つて全く不必要な審理が続けられ、はじめから結果の分りきつた判決文の理由を説く欄に被告の名誉を著しく損ふ内容が書かれることになつてしまつた。そして、被告にはこの汚名を雪ぐチャンスは二度と与へられないのだ。

絶対に取り違へてはならない点がある。著者は「Y氏がやつてもゐない殺人をやつたことにされたから」この判決理由が駄目だと言つてゐるのではない。「Y氏が殺人を実際に犯してゐようが犯してゐまいが、それは全く判決には関係がない」と言つてゐる。原告X氏は「いやそれこそが大切な、明らかにしたいことなのだ」といふだらうが、法に照らす限りそんなことは全くない。起訴事実が「損害賠償請求」である限り損害賠償の支払の妥当性だけが争点であり、架空の本件の場合はそもそも損害賠償の条件から外れてゐるのだから、損害の有無すら判定する必要はない、むしろ判定してはならないのである。

こんなのは所詮作り話だと思へど、実はさうでもないらしい。むしろ世の中の判決文の多くにかうした蛇足がみられ、裁判所はしなくても良い審理をし、司法の分を超えた憲法判断をしてマスコミを煽り、国会に新たな立法を仄めかしたりもする。これは重大な違法行為であるが、今まで誰もそれを問題にしてこないばかりか、歓迎されてきた節もあると著者は憤る。蛇足とはすなはち判決理由の要件を満たさない文であり、それが理由欄に書かれる悪しき慣例について今まで誰も疑問に思はなかつたのかと。

本全体が一貫した理論で貫かれてをり、読んでゐて大変小気味がよい。自分を「大人」だと自認するどこかの誰かがこれを読んだら「世の中そんな簡単なもんぢやないよ」と鼻で笑ひさうなものだが、世の中を訣の分らぬものにしてゐるのはつまりさういふ輩なのだ。おつと、これは蛇足かな。

2005年04月13日水曜日

[][][]世界最速のF1タイヤ ブリヂストン・エンジニアの闘い(浜島裕英,新潮新書)

世界最速のF1タイヤ―ブリヂストン・エンジニアの闘い (新潮新書)

世界最速のF1タイヤ―ブリヂストン・エンジニアの闘い (新潮新書)

ブリヂストンF1部隊の指揮官であり、現時点でミハエル・シューマッハーの最も厚い信頼を受ける日本人、「ハミー」こと浜島氏の自伝的エッセイ。

現役レースエンジニアが書いた本なので、具体的な記述は注意深く取り除かれて、漠然とした話に終始する。まるでどこかのF1雑誌に連載されたコラムを取り纏めた様な内容で、読み物としては相当に軽い。それ故に、F1入門書としては悪くない。

個人的には、近年のブリヂストンが事実上フェラーリとしか組まないことにもどかしさと苛立ちを感じざるを得ないが、この本を読むとそのことについてブリヂストンにも多少の言分があることは理解した。

今シーズンの開幕以来ブリヂストンがライバル勢に対し惨敗中の今こそが、この本を読むためのある意味ベストなタイミングなのかもしれない。

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