大和但馬屋読書日記

この日記は

2005年04月29日金曜日

[]読書中メモ(四月二十九日)

新本格魔法少女りすか (講談社ノベルズ)

最後まで読まないとだめですか?

何故買つたんだこの本をオレは。答:西尾維新を読んだことがなかつたのでどれかを読まうと思つてゐた。どうせなら西村キヌの絵がついたやつがいいなと思つた。そんだけ。とりあへずこつち系(どつち系?)に全く肌が合はないことは分つた。

ホーンテッド!〈2〉コトコトクライシス (MF文庫J)

埋読発掘。いつどこで買つたかも忘れた。しかも一巻だと思つて買つて読み始めたが、今表紙を改めてみたら「2」とかかいてある。白背景に白抜き袋文字だから全然見えてなかつた。

まあ、途中から読み始めてもついて行けないといふことはないし、普通にへらへらと読める。あとで一巻と三巻も買はう。

[][][]歴史学ってなんだ? (小田中直樹,PHP新書)

歴史学ってなんだ? (PHP新書)

歴史学ってなんだ? (PHP新書)

その名の通りの内容。歴史学の定義、歴史学と社会との関り方や位置付けなどを著者なりの視点で述べる。

面白かつた。読み易く分り易い語り口で、話題そのものは一見あちこちに寄り道もするが、ところどころに鋭い指摘が含まれてゐる。歴史学に留まらず、「物の考へ方」の変遷の概略を知るのにも良い。

「歴史学は社会の役に立つか」あるいは「社会の役に立たねばならないか」といふ問掛けは、歴史学だけでなくあらゆる学問、あらゆる文物に共通する。これに対する著者の答は以下のやうなものだ。

直接に社会の役に立とうとするのではなく、真実性を経由した上で社会の役に立とうとすること。集団的なアイデンティティや記憶に介入しようとするのではなく、個人の日常生活に役立つ知識を提供しようとすること。このような仕事に取り組むとき、歴史学は社会の役に立つはずだ

これには「役に立とうとするほうがよいに決まっているが、そうしなければならないとまではいえない」という、ちょっと中途半端なものになりますといふ前置きが付く。全く、歴史学だけの問題ではない。何につけても、近視眼的な即効性にばかり重い価値を求めると、物事を歪ませてしまふものだ。

2005年04月26日火曜日

[][][]「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人(青木人志,光文社新書)

「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人 (光文社新書)

「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人 (光文社新書)

明治以降、西洋の近代法が日本人にどう受容されてきたかを振り返る。

タイトルにある「大岡裁き」はこの本の中では全く重要でなく、タイトルに惹かれて本書を手にしたオレには肩透しの感が否めない。

ただ、西洋(といふかヨーロッパ)で培はれた近代法、と一括りにはできないほど個々に成立の事情も性格も全く異るフランス法イギリス法、ドイツ(プロイセン)法などを、明治日本の法学者達がどの様に学び、取り入れ、また棄てていつたかを概観できたのは収穫だつた。

「大岡裁き」を例に、日本の裁判と欧米のそれとの違ひを浮彫りにする第四章がこの本の主題だと思ひたいのだが、ここは少々煮え切らない。各説を取上げて紹介しながらも、著者の態度はそれぞれの「ええとこどり」をすれば良いではないかといふ印象で、実際的ではあるがサプライズには欠ける(そんなものを求めるオレが悪いだけだ)。

印象に残つた点をいくつか箇条書き。

  • 欧州諸国語の「権利」(英語でright)といふ言葉には「正」「直」「法」といつた意味が内在してゐるのに、「権利」といふ訳語からはそれらの意味が削ぎ落とされてゐる。これが日本人の権利意識に影響を与へてゐるといふ一説(P.115-)
    • 「権利」といふ言葉がなかつたからといつて、例へば明治以前に日本人に権利意識がなかつた訣ではないといふ反論(P.119-)※個人的には、この反論は問題をすり替へてゐると思ふ
  • 日本に近代法をもたらした御雇外国人ボアソナード博士の建議により明治前期に拷問が廃止されたが、ボアソナードの眼前で拷問を行つてゐた司法官は明治後期になつても彼のことを「法律家に似合ぬ慈悲深い男」と揶揄してゐたこと(P.128-)
  • 昨今流行の「自己責任」といふ言葉について、他者にそれを求めるのは自分の責任回避の発露でしかなく、「自己責任」の本来の意味からは逆行してゐるといふ著者の指摘(P.197-)

あと、どうにも引掛る記述を引用する。

不継受と廃棄の法制史

読者にはふたたび第一章の穂積陳重の姿の変遷を思い起こしていただきたい。マゲから一気に蝶ネクタイへ。このような柔軟さは、日本の法受容史を貫く顕著な特質のひとつだろう。

明治維新以来、たかだか三〇年のうちに、幕府法・藩法が棄てられ、律令が棄てられ、せっかく新しく学んだイギリス法も棄てられ、同じくフランス法もかなりの部分が棄てられ、ついには頭の古い司法官そのものが棄てられた。

そして、このあと第二次世界大戦後にも、またたくさんのものが棄てられることになる。わたしたちの先達は、その時々の状況に合った西洋法(学)を貪欲に摂取する一方で、実に潔く多くのものを棄てつづけてきたのである。

(略)

明治人たち、少なくとも国の中枢にあって西洋的近代化を推進した人たちは、おそろしく柔軟性があり、すさまじく進取の気象(ママ) に富んでいたというべきである。

「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人:P132-133

今もかうしたことが日本人の美点として語られるのである。

明治から昭和二十年代にかけての日本人が、生き延びるためにさうせざるを得なかつたといふのは歴史的な事実だ。しかしそれは、さうせざるを得なかつただけのことであつて、それ以上でも以下でもない。少なくとも、諸手を挙げて称揚すべきことだとは思はれない。「要らなくなつたら棄ててまた新しいものを取入れればよい」といふのは一個人の世渡り手法としては有効であつても、では取入れられるものがなくなつた場合にどうしたものかといふ問ひには答へられないだらう。今あるものが実情に合はなくなり、手本にすべきものも無くなつた時に、「旧いから」といふ理由だけで棄てられたものの中から新たな価値を見出せるだらうか。オレはさうすべきだと思ふが、今のところそんな考へは到底世の中には受容れられまい。つまるところ、何でもかんでも棄てられると思つたら大間違ひだぞ、と。

あと、終章はまるまる駄文。どうもこの著者は空疎な譬へで言葉を飾りすぎる嫌ひがある。古い鏡は今や新しい光を宿し盛んに輝いているからであるとか、読んでるこちらが恥かしい。

[]読書中メモ(四月二十六日)

歴史学ってなんだ? (PHP新書)

積読、といふか埋読だつたものを発掘。歴史書歴史小説の違ひは何処にあるか、といつた話から「大きな物語」の衰退/消滅の話、そして突然東浩紀大塚英志の名前が出てきて笑つた。東説にどちらかといふと批判的な取上げ方だつた。

2005年04月25日月曜日

[]読書中メモ(四月二十五日)

「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人 (光文社新書)

第四章、本が残り五分の一といふ段になつてやうやく「大岡裁き」といふ文言が本文に登場(序章は除く)。

ここに至るまでには西洋文化の流入と日本人の受容の仕方といふ馴染み深いテーマが扱はれて、それなりに思ふところはあるが、本の構成としてはやはり「長すぎる前置き」の感がある。

今日の帰りには読了できるかな。

2005年04月23日土曜日

[]読書中メモ(四月二十三日)

「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人 (光文社新書)

第二章、明治維新の頃に日本に西洋法が持ち込まれる過程。

なんだか、ものすごく前置きの長い人の話を少し苛々しながら聞いてゐる時のやうな気持ち。つか、そのまんまか。新書らしく先に要点をズバッと書いといてほしいと思ふのは何かに毒されすぎなのかも。

2005年04月21日木曜日

[][][][][]キューブサット物語~超小型手作り衛星、宇宙へ(川島レイ,エクスナレッジ)

キューブサット物語~超小型手作り衛星、宇宙へ

キューブサット物語~超小型手作り衛星、宇宙へ

大学生による、十センチメートル立方の超小型人工衛星打ち上げ成功の記録。

もちろん、この本の結末がどういふことになつてゐるかは既に知つてゐる。隠された事実でも何でもなく、現に二つのキューブサットが今も軌道上を回つてゐるわけで、さういふ意味では安心して読めるはず。しかしまあ、その結末に至るまでに起きたことどものなんとドラマチックであることよ。ある局面では、ほとんど詐欺紛ひの目にさへ遭つてゐるではないか。よくもまあ打上げまで漕ぎ着けられたものだ。

仮に、「プロジェクトは必ず成功させなくてはならない」といふスローガンめいたものを大前提として掲げてみる。「なぜ成功させなくてはならないか」といふ理由など必要ない。この前提の前には、現れてくるすべての「理由」は「なぜ成功しないか」を説明するものでしかなく、そのことごとくを退けたものだけが成功を味はふことができるのだと、さういふ風に読んだ。

これは別に「成功することだけを信じていればよい」といふ精神論ではない。「成功しない理由」を退けられるのは具体的な目標であつたり、複数の回避策を講じておくことだつたり、人間関係を築いておくことだつたり、一度失敗しておくことだつたり、あるいは運だつたりもする。ただ、当事者が「成功しない理由」を退けられると信じてゐないことにはどうしようもないわけで、信じる信じないといふより「さういふ感覚を持てるかどうか」なんだらうな。

「プロジェクトは必ず成功させなくてはならない」といふ大前提に沿へば、自分が身を引かなくてはならない場合(学生だつたら卒業もするし、何が起るか分つたものではない)でもプロジェクトが止まることは有得ない。当り前のことばかりだが、日頃プロジェクトが前に進まない理由にまみれて生きてゐる身にしてみれば、読み進めながらいろいろとつまされるものがあつた。

それにしても、本当に小さいよキューブサットは。何となく名前からの連想でニンテンドーゲームキューブくらゐの大きさを想像してしまふのだけど、実際は‥‥

2005年04月19日火曜日

[]入手した本(四月十九日)

裁判絡みでチェーンコンボ。「司法のしゃべりすぎ (新潮新書)」を読んだ時に、感想に「大岡裁き」なる言葉を入れたくて色々書いてみたが、そこまでして入れることもないかと思ひ直してやめた。「大岡裁き」言ひたいだけちやうんかと。したら、こんな本が出てたので買ふだけ買つてみた。

2005年04月17日日曜日

[][][]三鷹事件 1949年夏に何が起きたのか(片島紀男,新風舎文庫)

三鷹事件―1949年夏に何が起きたのか (新風舎文庫)

三鷹事件―1949年夏に何が起きたのか (新風舎文庫)

「日本を震撼させた事件シリーズ」の一冊。昭和四十年代生れのオレにとつて、三鷹事件は「三鷹事件といふ大事件がその昔にあつた」といふ以上の知識はない。たまたま書店でこの凡そ千ページ近くもある分厚い文庫本を目にして、これ一冊ですべてが分るなら読んでみようと思つた。森達也の解説もついてることだし、とか。切掛けなどそんなものだ。

そして今最後まで読み通して、読後感のやり場のなさに困り果ててゐる。それはただ単に、単独犯と認定されて死刑判決を受け、無罪を主張しながら獄死した竹内被告への感情移入からくるものではない。事件そのものの異様さ、関係者と目された者に対する恣意的な逮捕・拘禁・取調べの数々、そして裁判進行の異常さについては本書を読めば分ることなので、改めてここで繰返すこともない。

国鉄が、労組が、検察と警察が、裁判所が、拘置所が、医師が、官僚が、弁護士が、共産党が、占領軍が、そしてマスコミの形作る世論が、ある一人の被告人の足元にせつせと穴を掘つてゐる。ことに異様なのは、その穴を率先して掘つてゐるのは被告人の担当弁護士ときてゐる。ネットで調べてみたところ、この担当弁護士の一人は数々の大事件を手掛けた名弁護士ださうだが、この本を著者に寄添つた視線で読む限りはただのペテン師としか考へられないのだ。この感覚が正しいのかどうかは、もつと色々な本を読まなくては分らないだらうが、とにかく今はそんな風に感じてゐる。

そして、国鉄と、労組と、検察と警察と、裁判所と、拘置所と、医師と、官僚と、弁護士と、共産党と、占領軍と、そしてマスコミの形作る世論のすべてに呪詛を吐きたくて仕方がない。どうしようもないからここに「馬鹿野郎」とだけ書いておく。我ながら本当に中二病くさい。

当時の社会と今の社会が、地続きの同じ社会であることと、自分がその中の一人であることを忘れないでゐようと思ふ。


下関係ありさうななささうなことを雑感的に。つかただの自分語り

この本を読みながら、もしこの事件の状況下に現在の様なインターネット環境があつたらどんなことになつてゐたかと何度も考へた。2chのやうな匿名掲示板や有象無象のブログだのなんだのがてんでに勝手な憶測を繰り広げ、晒さなくてもよい個人情報を徒に晒し、豚の餌にもならない署名運動なんぞがあちこちで興り、皆が何かの御為ごかしを言つたつもりになつて、しかし全体としては事件解決に何の寄与もすることなく事件の話題そのものを無責任に腐らせていくのだらう。

今ネット上にあるすべての所謂「時事ネタ」について同じことが言へる。いくら冷静な判断を装つたところで、同時的な渦中に呑まれてゐては自分の意見などあつて無きに等しい。何かについてコメントをしたとして、では五年後に見返した時に自分はそれをどう思ふだらうか。どうにか思つたとして、過去の自分の発言に対して何らかのフォローができるだらうか。ものを言ふときに、さうしたことまで考へるべきなのか否か。オレ自身、「どうあるべきだ」といふ答へを今は持つてゐない、「大人」ではないからさう簡単には気持ちを割切れない。ならばせめて、割切れてないことを書留めておかう。

なんかもう書いては消し書いては消しするばかりで文章を纏められない。

2005年04月15日金曜日

[]読書中メモ(四月十五日)

三鷹事件―1949年夏に何が起きたのか (新風舎文庫)

竹内被告最高裁上告審が棄却されたところまで。冷静な心理状態でこの本を読み続けるのは難しいので、少しづつ。

新本格魔法少女りすか (講談社ノベルズ)

りすかが登場したところで我慢できずに本を放り投げた。最後まで読み通せる気がしない。

キューブサット物語~超小型手作り衛星、宇宙へ

東大チームが検討用モデルの仕様を決定するあたり。

2005年04月14日木曜日

[][][]司法のしゃべりすぎ(井上薫,新潮新書)

司法のしゃべりすぎ (新潮新書)

司法のしゃべりすぎ (新潮新書)

全ての裁判において、判決文には判決理由を書くことが義務付けられてゐる。現役判事である著者はこの判決理由を「実定法に基づき主文(判決文)を導く法理論的過程」であると定義づけ、判決理由文のうちこの定義に沿ふ部分を「要部」、定義から外れた部分を「蛇足」と判定し、世の判決文の理由欄が如何に蛇足に満ちてゐるかを告発する。

著者が掲げる架空の例を要約すると、こんな話だ。

V氏殺人事件の犯人として起訴されたY氏は、証拠不十分で不起訴処分を受け、釈放されて社会復帰した。その後二十年が経ち、被害者V氏の子X氏がY氏に対し、親を殺したとして損害賠償請求の訴へを起した。Y氏は殺人の事実の否認と、損害賠償の除斥期間の経過を主張した。裁判所は時効の過ぎた殺人事件の有無について三年間も審理を行ひ、最後にある判決を下した。判決文の主文には「損害賠償請求を棄却する」とあり、X氏の全面敗訴となつたが、Y氏はその判決書類を見て仰天した。その理由欄には、「Y氏は二十年前に殺人を犯したが、損害賠償請求の除斥期間が経過してゐるのでこれを棄却する」と書いてあつた。Y氏はこの判決理由を不服として裁判所に控訴を届け出たが、「裁判に全面勝利してゐるのだから、控訴によるY氏の利益が存在しない」としてこれは却下され、Y氏は過去に殺人を犯したといふ濡れ衣を一生背負ふ羽目になり、X氏はY氏が犯人だと認定されたことに満足した。

著者は、この「Y氏は過去に殺人を犯したかどうか」について述べた部分を全て蛇足だと断じる。なぜなら、損害賠償の除斥期間の経過はX氏の訴へが起された時点で明らかな事実なのだから、第一回目の口頭弁論の時にでもこれを理由に請求を棄却できたはずなのだ。なのにその後三年間に渡つて全く不必要な審理が続けられ、はじめから結果の分りきつた判決文の理由を説く欄に被告の名誉を著しく損ふ内容が書かれることになつてしまつた。そして、被告にはこの汚名を雪ぐチャンスは二度と与へられないのだ。

絶対に取り違へてはならない点がある。著者は「Y氏がやつてもゐない殺人をやつたことにされたから」この判決理由が駄目だと言つてゐるのではない。「Y氏が殺人を実際に犯してゐようが犯してゐまいが、それは全く判決には関係がない」と言つてゐる。原告X氏は「いやそれこそが大切な、明らかにしたいことなのだ」といふだらうが、法に照らす限りそんなことは全くない。起訴事実が「損害賠償請求」である限り損害賠償の支払の妥当性だけが争点であり、架空の本件の場合はそもそも損害賠償の条件から外れてゐるのだから、損害の有無すら判定する必要はない、むしろ判定してはならないのである。

こんなのは所詮作り話だと思へど、実はさうでもないらしい。むしろ世の中の判決文の多くにかうした蛇足がみられ、裁判所はしなくても良い審理をし、司法の分を超えた憲法判断をしてマスコミを煽り、国会に新たな立法を仄めかしたりもする。これは重大な違法行為であるが、今まで誰もそれを問題にしてこないばかりか、歓迎されてきた節もあると著者は憤る。蛇足とはすなはち判決理由の要件を満たさない文であり、それが理由欄に書かれる悪しき慣例について今まで誰も疑問に思はなかつたのかと。

本全体が一貫した理論で貫かれてをり、読んでゐて大変小気味がよい。自分を「大人」だと自認するどこかの誰かがこれを読んだら「世の中そんな簡単なもんぢやないよ」と鼻で笑ひさうなものだが、世の中を訣の分らぬものにしてゐるのはつまりさういふ輩なのだ。おつと、これは蛇足かな。

2005年04月13日水曜日

[]事始

書店で「日本人とユダヤ人 (角川oneテーマ21 (A-32))」なる本を見つけて、著者名を見てビックリしましたよ。「山本七平=イザヤ・ベンダサン」が公然の秘密でなく客観的事実として認められました、と受け取るのが正しいのかしらん。

それはさておき、メンバー認証を頂いてから随分長い間放置してましたが、何か書き始めることにしました。

d:id:yms-zunで書いてる「今日のゲーム」の読書版の様な位置付けで、読んだものについて何か書く、読みかけのものについても何か書く。それだけです。点数とか付けません。あらすじの紹介もしません。面倒なことはやりません。そんなものを書く価値があるのかどうかは知りませんが、そんなものを書く意味はあります、少なくとも私自身には。

ダイアリー日記同様、こちらも正かな使用で行く所存。何はともあれ、よろしくです。

[]入手した本

この様な羅列系エントリに意味があるかどうか分らず、ネット上のS/N比に悪影響を及ぼさないか心配でもあるので、取敢ずISBNの羅列のみで。

[][][]世界最速のF1タイヤ ブリヂストン・エンジニアの闘い(浜島裕英,新潮新書)

世界最速のF1タイヤ―ブリヂストン・エンジニアの闘い (新潮新書)

世界最速のF1タイヤ―ブリヂストン・エンジニアの闘い (新潮新書)

ブリヂストンF1部隊の指揮官であり、現時点でミハエル・シューマッハーの最も厚い信頼を受ける日本人、「ハミー」こと浜島氏の自伝的エッセイ。

現役レースエンジニアが書いた本なので、具体的な記述は注意深く取り除かれて、漠然とした話に終始する。まるでどこかのF1雑誌に連載されたコラムを取り纏めた様な内容で、読み物としては相当に軽い。それ故に、F1入門書としては悪くない。

個人的には、近年のブリヂストンが事実上フェラーリとしか組まないことにもどかしさと苛立ちを感じざるを得ないが、この本を読むとそのことについてブリヂストンにも多少の言分があることは理解した。

今シーズンの開幕以来ブリヂストンがライバル勢に対し惨敗中の今こそが、この本を読むためのある意味ベストなタイミングなのかもしれない。

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