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読書ノート

2017-06-17

p.172

 レトゥルノー*1は言う。(…)「ネーションの意識が必然的にナショナリズムや主権を備えた国民国家につながるわけではない(38)。換言すれば、ケベック文化が開花し発展することは、必ずしも政治的独立に向かうものではない。実際、ケベックの多数派は結局のところ、主権獲得や独立という道を選ばなかったではないか。

[伊達聖伸「訳者解説『記憶の未来』の読まれ方、あるいは「ポスト・デュモン」の知の勢力図」『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 p.172]

ISBN:9784560092323

p.159

ケベック・ネーションという考えは「誤謬さもなければ欺瞞」である。デュモンがこのように述べることの背景には、ネーションは(エスニシティの問題というより)何よりも文化の問題であるという認識がある。

[伊達聖伸「訳者解説『記憶の未来』の読まれ方、あるいは「ポスト・デュモン」の知の勢力図」『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 p.159]

ISBN:9784560092323

pp.147-8

慣習と伝統の支配していた堅固な共同体においては、記憶の問題はそもそも生じなかった。過去は参照されていたが、記述の対象ではなかった。個人が持っていた記憶は、せいぜい数世代前にさかのぼることができる程度の短いものだった。伝統はこのような記憶を集合的な記憶に結びつけ、人びとはそこに所属意識を持つことができていた。

 十九世紀になると、政治・経済・技術などあらゆる領域において、過去との断絶が明白になる。このような時代に発展を遂げた歴史学は、過去を参照することを説明抜きに促してきた伝統と手を切ろうとした。紙の記憶に依拠して人間の記憶の領域を拡張し、解読すべきとしての過去を再構成する仕事に従事した。このような歴史は、将来の社会を構築する企てへの参加を人びとに呼びかけ、市民を作る機能も有していた。

[伊達聖伸「訳者解説『記憶の未来』の読まれ方、あるいは「ポスト・デュモン」の知の勢力図」『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 pp.147-8]

ISBN:9784560092323

p.28

デュモンは伝統的な社会を特徴づけるのに「記憶なき社会」という言葉を用いているが、そのような社会がまったく記憶を必要としなかったのは、伝統がその代わりをしていたからだ。

[セルジュ・カンタン「日本語版への序文」『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 p.28]

ISBN:9784560092323

p.24

西欧文明の黎明期においてプラトンがすでに、人間が生きた記憶を紙の記憶という一見より信頼度が高いものによって引き延ばすやり方を警戒していた。(…)「この技術は、それを学んだ者の魂のうちに忘却を産み出すことになるだろう。というのも、彼らは記憶力(mnēmēs)の訓練をやめることになってしまうからだ。実際、彼らは自分自身の力によって内からではなく、書いたもの(graphēs)に信頼を置いて、自分のものではない刻印(tupōn)によって外からものを思い出す(anamimnēskomenous)ようになる。したがって、あなたが見つけたのは、記憶ではなくて想起(hupomnēseōs)の薬=毒(pharmakon)なのだ(8)

 同様に、近代においてニーチェは、歴史の長所よりも短所が勝っているのではないかとおそれた。人間は「歴史の病」に冒されて「もはや過去を滋養に富んだ糧として利用することができなく」なっているのではないだろうか(9)

[セルジュ・カンタン「日本語版への序文」『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 p.24]

ISBN:9784560092323

pp.19-20

テイラー*2とは異なり、デュモンにとって内面化は逃げ道か一時しのぎのようなものに見える。科学技術の合理性の影響のもとに超越性が私的領域に追い払われ、純粋に内在的かつ機能主義的な基準にしたがって世界が組織されていることがその証拠である。デュモンにとって、超越性は宗教の占有物ではなく、そもそも文化というものを構築するのに必要な次元をなすものである。そのような超越性*3が、個人の要求を満足させるために、公共生活から消滅しつつあるとデュモンは考えている。

[セルジュ・カンタン「日本語版への序文」『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 pp.19-20]

ISBN:9784560092323

*1:「ラヴァル大学の歴史学者ジョスラン・レトゥルノー」

*2:「哲学者のチャールズ・テイラー」

*3:p.114

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2017-02-23

pp.129-31

伝統が生まれつつあるように思われるが、それはかつての伝統のあり方とは大いに異なっている。それはたえず蘇生される対象であって、所与のものとして受け取られるのではない。(…)

検討や論争にさらされない伝統はもはや存在しないだろう。(…)それによって、それぞれの独自性をよりよく把握することができ(…)不変不動のものとして据え置かれるような状況を抜け出し、アイデンティティの記憶をさまざまな社会プロジェクトに結びつけるという、より大きな能力を獲得することができるのである。

[フェルナン・デュモン『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 pp.129-31]

  • p.48

ISBN:9784560092323

p.125

デモクラシーとは何よりも、王政支配の遺産に取って代わり、暴君の専制的な継承を糾弾するひとつの(…)伝統であってシステムではない。(…)ひとつの信仰(クロワイヤンス)なのだ。

[フェルナン・デュモン『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 p.125]


ISBN:9784560092323

p.124

イデオロギーの終焉(…)はあたかも幻想の終焉であるかのように語られているが、実のところは希望の終焉であるかもしれないのだ。市民が共有することができるような計画を持たない社会は、いったい何を私たちにもたらすのだろうか。権力が匿名であろうとなかろうと、そのような社会では歴史を作る主導権を(…)権力の思惑と利権に委ねてしまうことになる。

[フェルナン・デュモン『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 p.124]


ISBN:9784560092323

pp.123-4

歴史意識と政治意識は連動しており、歴史を記憶することと歴史に参加することは相互関係にある。(…)歴史が結論を控えるのは、歴史が解放をもたらすものだからである。このようにして、歴史は行為へと駆り立てるのである。

[フェルナン・デュモン『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 pp.123-4]


ISBN:9784560092323

p.113

消滅した文明が慣習の具体例を示していたとするならば、ネーションにおいては伝統がそのような慣習に依拠することはもはやありえないので、伝統の可能性は特殊的なものと普遍的なものの緊張関係に置かれるよりほかない。

[フェルナン・デュモン『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 p.113]


ISBN:9784560092323

p.112

コミュニケーションが拡張し、多国籍の経済的権力が地歩を固め、さまざまな文化が混ざり合い、いかにも世界の均一化が進みそうなものなのに、実は個別的な文化や限定された政治的圏域の権利*1要求が高まっているということだ。この反対の動きのなかに、社会の産出と、伝統の抵抗という二元性が認められるのではないだろうか。

[フェルナン・デュモン『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 p.112(傍線=傍点)]

ISBN:9784560092323

p.102

十九世紀のドイツの歴史家たちが、国の統一の前列となる歴史がないかを気にかけていたとき、彼らは細かな物語のなかに伝統を探し求めることに取り組んだのではなかっただろうか。

[フェルナン・デュモン『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 p.102]

ISBN:9784560092323

pp.100-1

歴史家は、それ*2をある背景とのかかわりにおいて再構成しているのである。(…)この背景とは何だろうか。それはより広範な歴史にして、この場合は語られない歴史ということではないだろうか。さらに言えば、それはより流動的なイメージによって示唆されるところの生成変化そのものではないだろうか。(…)かつてのキリスト教は終末論的な時間に依拠して出来事の実証的な説明をおろそかにしていたが、生成変化はこの終末論的な時間に取って代わるものでもある。古代人とは逆に、私たちはもはや背後世界*3を有していない。いや、むしろ背後世界がいまや歴史そのものになっていると言うべきかもしれない。

[フェルナン・デュモン『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 pp.100-1(傍線=傍点)]


ISBN:9784560092323

pp.91-2

アステカ人は、長いあいだある伝統を保持していた。それによると、ケツァルコアトルの神*4が髭のある白人の姿で舞い戻ってきたときに、彼らの文明は滅びることになっていた。やってきたのはスペインの征服者だが、一見彼らの伝統に合致していたので、彼らは何もできなかった。アステカ人は、敵の武力にもまして、自分たちの持つ記憶によって打ち負かされたのだ。

[フェルナン・デュモン『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 pp.91-2]

ISBN:9784560092323

*1:p.87,p.94

*2:「かつて存在した人間の生きざま、ある都市の過去、ある時代など」

*3〔ニーチェに由来する言葉。目に見える現象の背後に理想や真実が存在するという思想を、彼は「背後世界」と呼んで批判した〕

*4〔アステカ神話における農耕と文化の神〕

2017-02-21

pp.79-80

 テレビドラマが視聴者を過去に運ぶことはありえるが、それは過去からの連続性を担保するものというより、時間を断片化するものである。気分転換と記憶は同じものではない。(…)メディアにおいては、ある事件が別の事件を追い払う。そこにおいては、時間は際限なく細切れにされていく。(…)時間の断片化であって、記憶を作り出していくような整理統合とは言いにくい。(…)広告の宣伝が広告の宣伝たりえるのは、かつて必要不可欠だったものを時代遅れにすることによってである。ここにおいて広告とニュースは近づく。どちらも一過性の最新のものに価値を置くからである。

[フェルナン・デュモン『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 pp.79-80]


ISBN:9784560092323

pp.77-8

文化とは、長い歴史を通して伝えられる遺産である*1と同時に、再び企てるべき計画でもある。ある意味で文化は記憶にほかならない。

[フェルナン・デュモン『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 pp.77-8]


ISBN:9784560092323

pp.76-7

近代国家の誕生も、伝統的な連帯のあり方の衰退と関係がある。(…)近代国家の台頭と官僚制の発達はほとんど同じと言ってよい。管理の拡大は、生産の増大に対応している。二十世紀、福祉国家は社会生活のあらゆる部門に侵入した。現在、(…)経済の支配力に押されて後退しているが、それは権力の移行を示すものであって、私たちの存在にのしかかる管理の重みが減るということはまず考えられない。この管理はますます不明瞭な形になるだろう。

[フェルナン・デュモン『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 pp.76-7]


ISBN:9784560092323

*1:p.49