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読書ノート

2017-05-15

p.199

近代日本が要請し、過去に投影した女性統治者像(…)ヒミコ像は、確固たるイメージとして定着し、現在も古代史の学説として重要な位置をしめ、女帝「巫女」説の源流でありつづけている。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』p.199]

ISBN:9784480062284

p.198

「倭女王」卑弥呼と神功「皇后」を同列に置いているところにも、「皇后」を〝君主〟と見なす『日本書紀』の編者の意識がうかがえる。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』p.198]

ISBN:9784480062284

pp.195-6

白鳥(庫吉)の論は、こうしたヒミコ像転換の背景がどこにあるかを語って、余すところがない。

(…)白鳥説がでるまでは、『魏志』倭人伝のヒミコを「生涯を神に捧げた巫女」とみる〝読み〟は、まだ成立していなかったのだ。白鳥説によって、ヒミコであろうはずがないとされた「軍国の政務を親ら裁断する俗界に於ける英略勇武の君主」像とは、まさに明治四十年代における明治天皇のイメージそのものではないか。

 また、

「男尊女卑は我が古俗なり」「夫婦の制が判然と確立」していることも、明治の皇室典範制定に際して、女帝否定論者によって繰り返し我が国の〝伝統〟として持ち出されたことであった。それ故に、現実に存在した過去の女帝たちは、政府による公的な解釈では「中継ぎ」であったとされ、古代史の学問上では、さらにそれに加えて彼女たちの本質は「巫女」だとする説が、しきりに唱えられるようになるのである。

(…)ヒミコと切り離された神功皇后のイメージにも、微妙で大きな変化があった。神功皇后伝説は、近世を通じて安産の守り神や疱瘡(ほうそう)除け等の民衆の信仰と結びつきながら、(…)国権拡張のシンボルとして紙幣の図柄ともなり、さまざまな神功皇后像が描かれた。しかし、その全盛期は、幕末・維新から明治二十年代半ばまでであって、日清・日露以後さ衰退するという*1。日清・日露以後といえば、内藤・白鳥説が出たのと同じ頃である。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』pp.195-6(括弧内引用者)]

ISBN:9784480062284

pp.188-90

描かれているのは、

① 神の言葉をきく力をもつ
② 武装して軍隊を率い、戦の先頭に立つ
③ 征服によって支配領域を広げ、国を富ます
④ 妻であり、母となった女性

である。『日本書紀』の編者は、こうした女性像を『魏志』倭人伝のヒミコと重ねあわせることに何のためらいも持たなかったのだ。

(…)①~④のうち、①②③は、(…)男女の王に共通する資格・行動である。(…)王朝との外交交渉も、(…)当然、王としてのヒミコが率先してなすべき事柄であった。(…)

 こうした女性像は、中世・近世にいたるまで基本的には変わらない。それが劇的に変わるのは、近代も一九一〇年代になってからのことである。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』pp.188-90]

ISBN:9784480062284

p.167

孝謙(即位前は阿倍内親王(あへのひめみこ)=称徳には和風諡号はなく、淳仁に譲位した時に百官が奉った中国風の尊号は「宝字称徳孝謙皇帝(ほうじしょうとくこうけんこうてい)」である。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』p.167]

ISBN:9784480062284

p.161

転換点に立っているとの自覚をもって過去の歴史を振り返った時代、それが推古の時代だった。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』p.161]

ISBN:9784480062284

*1(若桑みどり「明治近代国家形成期における「女性神格」の創造」)

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2017-05-14

pp.150-2

七世紀末~八世紀初に、全国的制度としての戸籍が確立する。(…)そこでは公民身分の女性は、例外なく、一律に「**メ(女・売)」の名で登録されている。(…)

 ところが、同じ奈良時代作成の公的台帳であっても、「陸奥国戸口損益帳(むつのくにここうそんえきちょう)」とよばれているものをみると、そこでは、十名ほどの女性名の全てに「メ」がない。女性名に「メ」をつけるか否かは、その資料の性格と作成者(役人)の作成方針の違いであって、(…)戸籍の女性名から「メ」を取り除いてみれば、(…)戸籍上の男性名と共通する名称が少なくない。実態としては男女共通の名前であったものに、戸籍上で女=「メ」を付したと推定できるのである。

 戸籍は、中央集権支配を可能にする、租税徴収・兵士徴発のための基礎台帳である。(…)律令制以前には、部民制支配のしくみを通じて(…)男女を交えた集団労働が行われ、その成果も集団的に貢納されるので(…)男女個々人を厳格に台帳上で識別する必要は生じなかったろう。

 しかし、律令租税制のもとでは、納入の窓口はあくまでも一人一人の〝男〟である。奴婢についても、男女で法制上の扱いは異なり、戸籍上の婢の名前にはすべて「メ」がついている。(…)戸籍は、七世紀末の全国的な徴兵制度施行にともない、まずはそのための台帳として作成された。それまでは、戦いの場に女がいることは特別のことではなかった(関口裕子「日本古代の戦争と女性」)が、律令制以後は〝兵士=男〟が制度として定まり、(…)戸籍上で名前に「メ」を持つ人間は、兵士となりえない者=〝女〟であり、名前に「メ」を持たない人間は、兵士となるべき者=〝男〟という区分が、ここに明確に設定されたのである。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』pp.150-2]

ISBN:9784480062284

p.147

 近年*1、飛鳥京や平城京から多量の木簡が出土し、(…)公式の歴史書では「(…)皇女」「(…)女王」などと記される女性が、少なくとも八世紀前半まで、日常的には「(…)皇子」「(…)王子」「(…)王」だったことがはっきりした*2。訓みとしては「(…)ミコ」である。こうした用法は、口語の世界では平安時代にもひきつづき見られ(…)『古事記』は、この伝統的な実際の用法を、書式として採用したことがわかる。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』p.147]

ISBN:9784480062284

pp.139-40

古代の「兄」「弟」の用法は、現代とは全く違っている。古くは、男女それぞれが、自分と同性の年長者をエ、年少者をオトとよび、女性からみた兄弟は長幼と関係なくセ、男性からみた姉妹は長幼と関係なくイモ・モと(…)明確な区別があったのである。(…)

 それがしだいに、(…)現代と同じ用法にかわっていく。『日本書紀』や『風土記』の編纂された八世紀前半は、ちょうどその大きな変わり目にあたっていた。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』pp.139-40]

ISBN:9784480062284

pp.134-5

登場人物が男か女かを『風土記』の記載だけから判定することは、実はそれほど簡単なことではない。(…)

話の内容だけからでは、〝男〟とも〝女〟ともいいきれない。(…)

伝承世界での〝女〟〝男〟の境界は、きわめてあやふやである(…)このあやふやな境界を絶対なものであるかのように受け取って、これまで、「女」の「土蜘蛛」について論じてきたのだ。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』pp.134-5]

ISBN:9784480062284

pp.131-2

私たちは、ほとんど疑問の余地なく、文明化された朝廷の王者による未開の蛮族の制圧過程として、「土蜘蛛」の話を読み取るだろう。だがそれは、無意識のうちに『日本書紀』や『風土記』編者のねらいにはまってしまうことである。

 後世風の諡号(しごう)・尊称をとりのぞけば、五世紀ごろまでのヤマトの王や豪族は、実は、土蜘蛛たちと同質の名前をもっている。ここに目を据えれば、滅ぼした側も、滅ぼされた側も、こうした名前を身にまとうことに強い呪力の働きを見いだす、その意味では共通の宇宙観・自然観にたつ同質の首長たちだったことが、ありありとみえてくるだろう。

 名前の同質性に着目することは、ヤマトと「土蜘蛛」の対比の虚構性に目をひらかせるだけではない。〝男〟と〝女〟の区分への深い疑問にもつながっていく。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』pp.131-2]

ISBN:9784480062284

pp.126-8

「イイ(ヒ)トヨ」は鳥の名らしい。(…)『和名抄』には、「漢語抄」をひいて以比止与(いひとよ)とあり、(…)『新撰字鏡』では以比登与(いひとよ)、また与太加(よたか)とある。フクロウのことである。(…)

 この時期の大王の名を見ると、仁徳=「オオサザキ」、武烈=「ワカサザキ」は鳥の名である*3

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』pp.126-8]

ISBN:9784480062284

p.125#b

男女区別なく同母グループごとに長幼の順で記していく古い系譜記載様式

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』p.125#b]

ISBN:9784480062284

p.125#a

天皇ないし天皇に準ずる人物の名前には「尊」をつけるのが『日本書紀』の方針である。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』p.125#a]

ISBN:9784480062284

p.124

王族女性を「女王・皇女」(ヒメミコ)として、男性王族の「王・皇子」(ミコ)と区別する表記は、七世紀~八世紀初までは行われていなかった。『古事記』は、郎女(いらつめ)または(みこ)を使っていて、編纂時に近い、より確実な時代については男女区別なく「王」である。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』p.124]

ISBN:9784480062284

p.116

訓み自体は折口説でよいと思う。しかし、(…)イイトヨ王が「宮廷高巫」だったという結論にはならないだろう。(…)「葛城忍海之高木角刺宮に坐す」王として、群臣から、誰を「日継」にすべきかを問われたことにかわりはないからである。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』p.116]

ISBN:9784480062284

*1:二〇〇五年四月一〇日 第一刷発行

*2(東野浩之「長屋王家木簡の文体と用語」)

*3(サザキはミソサザイのこと)

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2017-05-13

pp.098-100

倭人伝での「男弟有りて国を(たす)け治む」という記述(…)

稲荷山古墳出土鉄剣には、(…)大王に仕えたことが誇らしく記されている。その中に「左治」という二文字がみえる。

(…)この銘文から、私たちは、〝ワカタケル大王は飾り物で、実際の政治はもっぱらヲワケがしたのだ〟とか、〝本当の王はヲワケだった〟などといった議論をするだろうか。(…)なぜ同じ「佐(左)治」の語を眼にしながら、ヒミコは祭祀専門で実際に政治をしたのは「男弟」、と決めつけてしまうのだろう。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』pp.098-100]

ISBN:9784480062284


pp.096-8

ヒミコの行った外交は、(…)動機においても、(…)儀礼方式においても、ワカタケルと何ら異ならない。(…)

 帯方郡からの使者が「黄幢」をもって倭国に到った時、(…)もし彼女が生きていたとしたならば、中国王朝の後ろ盾を示す「黄幢」を掲げ、ヒミコ自身が率先して戦陣に臨んだと想定することは、それほど突飛なことだろうか。(…)七世紀後半、百済滅亡の危機に直面して、ヤマト朝廷がその総力をあげて百済復興救援の大軍を派遣した時、斉明(さいめい)天皇は六十歳を超す老齢にもかかわらず出征し、軍営を設けた朝倉宮(あさくらのみや)(福岡県朝倉郡)で亡くなった。そのころまでの倭国の伝統においては、男女・年齢をとわず、国の命運をかけた戦いに王が親征することは当然のことだったのである。

(…)呪術的祭祀にすぐれた能力を発揮することと、軍事指揮の先頭にたつこととは、男女をとわず、倭王として備えるべき資質だったとみるべきだろう。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』pp.096-8]

ISBN:9784480062284


pp.094-5

外国からの使者の前に姿を現さないということは、倭王の外交儀礼としてのゆるぎない伝統であったらしい。七世紀末~八世紀初、中国式に整えられた藤原宮(ふじわらのみや)大極殿(だいごくでん)で、文武天皇がはじめて外国使の前に姿を現して拝賀をうけ(『続日本紀』(…))、ここにやっと中国式外交儀礼が確立する。(…)

外国の使者にとっては、ヒミコも含めて、古い時代の倭王はみな〝見えない王〟だった。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』pp.094-5]

ISBN:9784480062284


p.086

当時の中国社会は、すでに徹底した男尊女卑・父系の社会だった。(…)「女には夫は何人いるか?」という質問を発することは、思いもよらなかったはずである。国家の造籍方針からはずれた婚姻関係・親子関係が、戸籍上では〝見えない〟のと同様に、男中心社会の見方に慣れた中国史家の手になる倭人伝では、男の側から見た「多妻」は書きとどめられているが、女にもあり得たかもしれない〝多夫〟の現実は、全く〝見えない〟ものとなっているのである。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』p.086]

ISBN:9784480062284


pp.083-7

一九五〇年代~六〇年代ごろの家族史研究では、戸籍の記載をそのまま家族実態と見なしてきた。しかし現在では、戸籍には租税収取・兵士徴発の台帳としてさまざまに作り替えの手が加わっていること、また、律令国家があらたに導入をめざしていた父系主義の原則で記載されているために、通い婚や、妻方居住婚等の実態はきわめて見えにくくなっていること、注意深く分析することで背後の実態がわずかに浮かび上がってくること、が明らかにされている*1

(…)

 戸籍については、何十年にもわたる大勢の研究者の努力によって、戸籍からは〝見えない〟関係が、少しずつ探り出されてきた。その場合、戸籍以外の史料には豊富に記録されている通い婚や妻方居住婚が、戸籍には一例も記載されていないのはなぜか、という疑問が解明への一つの手がかりとなった。倭人伝についても、その字面だけに視野を限定せず広く古代の婚姻関係全体を見渡せば、「大人皆四五婦、下戸或二三婦」への疑問が湧く

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』pp.083-7]

ISBN:9784480062284


pp.082-3

女性の性関係の相手が一人の夫に限定され、それ以外の関係をいわゆる密通・姦通として厳しい制裁の対象とする社会慣行が成立するのは、(…)平安後期以降のことである。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』pp.082-3]

ISBN:9784480062284


p.081

書物からわかる日本古代の婚姻は、妻問(つまとい)婚といわれるものである。ツマというのは、一対の片方をさす言葉で、男からみた妻もツマ、女からみた夫もツマである(この用法は、現在でも短歌の世界には残っている

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』p.081]

ISBN:9784480062284


pp.076-7

「辞を伝えて事を説く」場合に用いられた邪馬台国の礼法*2は、『旧唐書(くとうじょ)』倭国伝が、推古朝の冠位十二階のことにつづけて()訴訟(そしょう)する者は、匍匐(ほふく)して(すす)む」と記すように、統治の場における礼法として整えられていく。しかし、(…)「会同」の場における「大人」に対する作法*3は、これとは全く性格と歴史的背景が異なる。それが、倭人伝においてこのように二ヵ所*4に分けて礼法が記される理由であろう。(…)「会同」は、新たな統治体制のもとでの身分序列とは異質の、身分の区別の厳密な表示を必要としない、旧来の共同体的性格を濃厚に残す集会だったと推定されるのである。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』pp.076-7]

ISBN:9784480062284


pp.067-8

『魏志』には、「会同」の用例が八例あり、政治的会合、皇帝と臣下の宴会などをさしている。

そのうちの三例が東夷伝にあり、(…)

倭人伝では、「会同」の場に女も男と全く同様に参加し、「父子」の間でも、「男女」の間でも、そこでの着席順や行動のしかたに違いがないという。(…)中国の史書編纂者にとって、女も参加する倭人社会の集会は強い印象があったのだろう。高句麗伝に「男女」の字句がないのは、そうした政治的儀礼的場に男だけが参加するのは、中国史家にとっては当たり前なので書かれないのである。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』pp.067-8]

ISBN:9784480062284

*1(南部『日本古代戸籍の研究』)

*2:「「下戸」は「大人」に対しては後ずさりして道ばたによけ、ものを申し上げる時には、うずくまり地面に両手をつかなければならない」(p.075)

*3:「「搏手」をし、それで「跪拝」の代わりとする」(p.073)

*4:「習俗・自然・慣習法」の部と「統治体制」の部

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