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読書ノート

2017-08-15

pp.155-60

カントからヘーゲルに至るマルクス前史のドイツ哲学は、すべての「もの」の内部には固有*1の本質があることを前提にして、「富」がいかにしてつくられるかを検討している。だからこのような土壌の上で研究をすすめたマルクスもまた、疑うことなく、商品には使用価値と価値という固有の実態があると考え、ここから論理を出発させてしまったのではないだろうか。

(…)時間とは時計の時間*2であることを不可侵の前提として(…)

労働者は時間を売りながら仕事をし、資本家は時間を買いながら労働者に仕事をさせる。

(…)人間の存在とは、それ自身が時間なものだから(…)存在が時間をつくり、時間が存在をつくる。すなわち時間の存在形式は、人間の存在の秩序*3である。労働の時間の存在形式が、人間の労働の存在形式であり、労働の存在秩序であるようにである。

[内山節『内山節著作集9 時間についての十二章』pp.155-60]


ISBN:9784540141331

pp.144-51

資本制商品生産*4はつねに改革されつづけていかなければならない以上、新しい領域を切り開きつづけ、そこではとりあえず時間管理が希薄になる(…)逆にみれば、時間管理が困難な領域を新たにつくりつづけることが、資本制商品生産の躍進力でさえあるといってもよい。

 テーラーやフォード(…)らが理想としたような、労働者が命じられた単純作業だけをすればよい工場、時計の時間だけが支配する工場(…)は完璧な労働管理ではあっても、同時に資本制商品生産の躍進力も喪失させることになるのである(…)

資本制商品生産とは、非合理的な部分をもちつづける合理的な生産様式なのではないかと思う。おそらくこの生産様式の「強さ」はこのような矛盾をもちながらも、それを活力にしているところにあるのではないかと。

(…)Aさんは、ある大企業のなかで働く契約職人であった。金属加工の職人として彼は若い頃はいくつもの企業を渡り歩きながら、その企業のなかの親方や兄弟子の下で腕をみがいた。企業に勤めたというより、その企業のなかの職人集団に加わって仕事を覚えていったといったほうがよい。

 それは戦前の職工にはよくあるかたちであった。(…)

 企業内契約職人になってからのAさんは、自分の職人的な時間世界を企業の工程管理=時間管理に侵蝕されまいと努力していた。複雑な金属削りのコツ誰にも教えなかったし、それが自分にしかできない労働であることを守るためには、どんなハッタリも無理もしてきた。貴重な職人でありつづけることは、自分の労働の時間が自分自身のものであることを守る最良の方法であった。

(…)人間の知恵や技能、カン、コツといったものを全く必要としない労働などつくられるはずはない。なぜなら労働はロボットによる作業とは違って、それ自身が人間の存在だからである。

[内山節『内山節著作集9 時間についての十二章』pp.144-51]


ISBN:9784540141331

pp.136-7

経営者は、この工場で働いている人々と同じレベルの職人的な腕をもっていない(…)

経営者たちは、労働者はきっとできるだけ少なく働いて、できるだけ多くの賃金を得ようと考えているに違いないという不信感を労働者たちに対していだいている。もっと能率よく働くことができるはずだ、経営者たちはそう思いながらも自分は職人ではないから、本当はどうなのかがわからないのである。

[内山節『内山節著作集9 時間についての十二章』pp.136-7]


ISBN:9784540141331

*1:p.118

*2:p.023

*3:p.53

*4:「初期の資本制商品生産は、(…)時間そのものは価値の基準にはならず、労働生産物が価値を生む」(p.142)

2017-08-14

pp.129-33

 第一に渡植は研究そのものが好きだった。心からそれを楽しんでいた。第二に生活と研究は一体のものであった。(…)

 この二つは昔の職人たちにあったものである。(…)職人の仕事は彼の生活と不可分のかたちで一体化している。

(…)自分にとっては学問は全人生をかけた遊びなのだから、死ぬまでやめられるはずはないと話していた。(…)外からみれば厳しい仕事への対峙であっても、本人は仕事のなかに楽しさや遊びのような面白さを発見しているからこそ、いつも真剣でいられるのである。

(…)

 主体的な労働の世界、自分の経験やカンを働かせながらおこなわれる労働の世界では、時計の刻む時間はしばしば無視されている。主体的な時間が形成される。使用価値はこんな時間存在のなかで生みだされる。

[内山節『内山節著作集9 時間についての十二章』pp.129-33]


ISBN:9784540141331

pp.124-7

もし今日の商品のなかに、商品であることをつき抜けた使用価値が内在していないとすれば、(…)労働者たちは、ただ労働力を消耗させているだけであって、労働に対する主体性も、労働の喜びや楽しさを獲得する余地はないということになる。それは労働者はロボットのかわりに働いているということである。

 しかしそうだろうか。(…)

 渡植(彦太郎)の提起は、(…)この合理的認識不可能なものをいかに認識するのかという点にあった。だから渡植はときにそれを「文化」という言葉で語ろうとしたのである。(…)

 ここで私(内山)はこのジレンマを破るべくひとつの提案を試みた。それは使用価値を交通概念、関係概念として把握するという試みである。労働生産物のなかに使用価値という固有の概念は存在していないと私は考えた。それは交通のなかでのみあらわれてくる関係的価値だったのではないだろうか。つまり(…)勝手につくりだすこともできないし、(…)勝手に発見されることもない。(…)交通するとき、その関係のなかでつくられてくる(…)それなら(…)交通をとらえることによって認識可能なのではないだろうか。

 それは渡植にとっても異存のないことであった。ところがこのような一致をみてしまったために、私たちは「世界観」の転換をめざさなければならなくなった。それは固有のもの*1が存在し、その関係が固有のもの同士の間に関係が成立するのではなく、はじめに関係が存在し、その関係が固有性をもつくりだしているという視点への転換である。(…)

 とりわけ市民社会論では、この視点は多くの人々の反発・批判を覚悟しなければならなかった。なぜならそれは、通俗的にいえば自立した個人、個の確立を大原則とし、その個の関係として市民社会はつくられるべきだという日本の近代思想と対立するものだったからである。私はそれを古典経済学と古典社会思想のつくりだした幻想だと考えた。むしろ逆に、市民社会の関係性が「個」という固有性をもつくりだしているのであり、私たちの目標は「個」の確立ではなく、関係性の改革だったのではなかったか。

[内山節『内山節著作集9 時間についての十二章』pp.124-7]


ISBN:9784540141331

*1:p.118

2017-08-12

p.118

その「固有のもの」には三つの傾向があった。第一に古代ギリシャの哲学者たちがみつけだそうとし、カントが物自体として発見したような、それをつくりだした「固有のもの」がある。第二にその固有性をすべて神の手にゆだねていこうという傾向があった。ここではあらゆる「固有なもの」をつくりだしたのは神であった。第三にその「固有のもの」は、ベルクソンが述べたように、それ自体としてあるのではなく、法則をとおして形成されているというとらえ方があった。

[内山節『内山節著作集9 時間についての十二章』p.118]

ISBN:9784540141331

p.099

以前は村の人たちは「勤めに出るのはバカげたことだ」と言っていた(…)一九六〇年頃までは勤めに出るより、山仕事や畑仕事のほうがよい収入になったという意味もある。しかしそれだけではなく、勤めには身売りするという感覚が伴われていたことも確かだった。それは他人のたてた計画の下で働くことにあるだけではなく、村人の保持してきた時空を売り渡すという意味も含んでいた。

[内山節『内山節著作集9 時間についての十二章』p.099]

ISBN:9784540141331