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読書ノート

2017-09-20

pp.191-2

 「公人」と「私人」とを区別する発想自体は、古くはローマ法のなかにも見出だされます。ですが、(…)「公と私」というふうに対比して扱うようになるのは、一七世紀末のことだといわれています。

(…)

 おもしろいことに、日本人は、この「パブリック」という言葉を欧米とは少し異なるニュアンスで翻訳しています。(…)

まず「支配者」という「主体」を「パブリック」の訳語にあて、その「主体」の担当する領域をさすものを「公」と位置づけ(…)支配者である「公=おおやけ」に対比されるのは、支配される「主体」であり、その人たちが受けもつ領域になります。後者にあてられたのが「私=し=わたくし」です。英語では“private”は領域をさしていましたし、主体である「わたくし」は“I”として明確に区別されています。日本語では、主体と領域とが混じり合っており、一つの漢字「私」を使います。興味深い違いです。

[井手英策・宇野重規・坂井豊貴・松沢裕作『大人のための社会科——未来を語るために』pp.191-2]

ISBN:9784641149205

2017-09-19

p.109

共通のリスクにさらされているとしても、一人ひとりにとっては自分だけの問題にみえる(…)

 この「社会学的革命」*1により、社会問題はあたかも個人化しているようにみえるようになりました。本来、社会的な背景をもっており、個人にすべて帰責できない事柄までが、個人の問題のように現れたのです。

 逆に、かつてであれば、社会問題を解決するにあたって、同じ境遇にある労働者の団結をめざす労働運動も可能でしたが、今日では(…)問題解決は難しくなるばかりです。

 この「社会問題の個人化」こそが、〈私たち〉の問題を、〈私たち〉の力で解決する民主主義を困難にしているように思えてなりません。

[井手英策・宇野重規・坂井豊貴・松沢裕作『大人のための社会科——未来を語るために』p.109]


ISBN:9784641149205

*1:「フランスの社会学者ピエール・ロザンヴァロンは「集団・階層」から「個別の状況や個人史」への「社会学的革命」とよんでいます(Rosanvallon 1995)

2017-09-06

pp.298-9

いわば、その人が暮らしている社会がもっている日常的な精神の習慣が、無意識のうちにその人に価値判断をおこさせるケースは、いくらでもあるといってもよい。(…)たとえば私たちは秋の紅葉した森をみたとき、それを(…)本当に美しいと感じているのか、それとも(…)美しいと判断するのが妥当だという意識をもっているから、この精神の習慣にしたがって美しいと感じているのか(…)実際、一年中紅葉しない森の近くで暮らしてきた知人が、はじめて紅葉した森をみたときの感想は、「気持ち悪い」だったのである。

(…)人間たちの間に価値基準の違いがあれば、同じ出来事が違った現実としてみえてくる。(…)ところがあまりにも日常的な精神の習慣にもとづいて判断しているものは、価値基準の違いが発生せず、そのためにだれもが同じ現実をみてしまう。しかも、だれもが同じ現実をみているから、私たちはそれが現実だと思い、本当にそれが現実なのかどうかを疑おうとしない

[内山節『内山節著作集9 時間についての十二章』pp.298-9]


ISBN:9784540141331

pp.294-5

マルクスが最初に就いた仕事は、「新ライン新聞」の記者であった。(…)そのこともあってマルクスは、哲学は現実から出発するという発想を、生涯手放そうとはしなかった。(…)現実から出発し、現実に返る認識のプロセスのなかに、思想や哲学の営みがあることを、彼は大事にしつづけた。そして、だからこそ、彼の哲学は現実と強く結びつき、現実に大きな影響を与える哲学として成立したのである。

[内山節『内山節著作集9 時間についての十二章』pp.294-5]

ISBN:9784540141331