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読書ノート

2017-04-09

p.101

言葉によって表現されたものを解釈するということは、実は、(…)言葉の使用者の意志ではなく、言葉それ自体を理解するということであり、(…)言葉が媒介する「伝統」あるいは「国体」に触れるということである。

(…)言葉によって表現されたものとしての法律もまた、この例外ではない。(…)

 公平な判決を下すということは、法の言葉を解釈し、法の背景にある国体を理解するという行為である。

[中野剛志「裁判員制度を裁く」『反官反民 中野剛志評論集』p.101]

ISBN:9784864880015

p.98

「法の支配」の重要性を強調したハイエクは、まさにその*1ような国体改革論を「設計主義」と呼び、全体主義の底流に流れる思想であると弾劾したのである。

[中野剛志「裁判員制度を裁く」『反官反民 中野剛志評論集』p.98]


ISBN:9784864880015

p.96

司法制度改革は、政治改革、行政改革、経済構造改革等の諸改革の「最後のかなめ」であるとされ(…)諸改革の共通の理念は、「統治者(お上)としての政府観から脱して、国民みずからが統治に重い責任を追い、そうした国民に応える政府への転換」であるとされている。

[中野剛志「裁判員制度を裁く」『反官反民 中野剛志評論集』p.96]

ISBN:9784864880015

*1:「「法の支配」と「国体」が別物であって、「法の支配」が実現するように「国体」を設計すべき、あるいは改造すべきであるという」

2017-02-25

pp.115-6

ヘーゲルが最も重視した解決策は、職業団体の活用であった。(…)

近代的職業団体の構成員は、国家によって(…)個人の自由と自律性を確保したまま、(…)国家(ステイト)の下で「ネイション」という共同体に再統合されるのであるが、個人と国家のに介在する中間組織が、この職業団体なのである。

 この職業団体という解決法は、(…)財政金融政策より根本的な解決策であるように思える。

[中野剛志「ヘーゲルの処方箋 中国経済の問題をどう解決するか」『反官反民 中野剛志評論集』pp.115-6]

ISBN:9784864880015

p.113

ヘーゲルは、過剰生産と疎外は、個人の頽廃の「結果」であるだけでなく、「原因」でもあると論じている。近代市場システムの中にあって(…)認められたいがために、経済的成功を求めてしゃにむに働く。しかし、(…)本質的に利己的なものであるからして、(…)社会的に真の意味で認知され、評価されることはあり得ない。そこで、(…)社会的認知を求めて、さらに経済的成功を目指して突き進むという悪循環に陥ってしまう。(…)過剰生産はさらに促され、疎外の問題はいっそう深刻化するのである。

[中野剛志「ヘーゲルの処方箋 中国経済の問題をどう解決するか」『反官反民 中野剛志評論集』p.113]


ISBN:9784864880015

pp.111-3

前近代社会であれば、個人の解放は単なる秩序の破壊でしかなかったであろう。しかし、近代社会あるいは「市民社会」においては、(…)秩序と個人の自由が両立するようになっている。(…)

近代の貧困は、単なる経済的な困窮ではなく、大規模な近代市場システムの中にいるがために、自分が共同体の一員であり、他者から認知されているという実感をも喪失してしまう状態、いわゆる「疎外」である。この孤立し、疎外された個人の集まりが大衆となって、やがては暴徒と化し、秩序を破壊するに至る。

[中野剛志「ヘーゲルの処方箋 中国経済の問題をどう解決するか」『反官反民 中野剛志評論集』pp.111-3]


ISBN:9784864880015

2017-02-23

pp.129-31

伝統が生まれつつあるように思われるが、それはかつての伝統のあり方とは大いに異なっている。それはたえず蘇生される対象であって、所与のものとして受け取られるのではない。(…)

検討や論争にさらされない伝統はもはや存在しないだろう。(…)それによって、それぞれの独自性をよりよく把握することができ(…)不変不動のものとして据え置かれるような状況を抜け出し、アイデンティティの記憶をさまざまな社会プロジェクトに結びつけるという、より大きな能力を獲得することができるのである。

[フェルナン・デュモン『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 pp.129-31]

  • p.48

ISBN:9784560092323

p.125

デモクラシーとは何よりも、王政支配の遺産に取って代わり、暴君の専制的な継承を糾弾するひとつの(…)伝統であってシステムではない。(…)ひとつの信仰(クロワイヤンス)なのだ。

[フェルナン・デュモン『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 p.125]


ISBN:9784560092323

p.124

イデオロギーの終焉(…)はあたかも幻想の終焉であるかのように語られているが、実のところは希望の終焉であるかもしれないのだ。市民が共有することができるような計画を持たない社会は、いったい何を私たちにもたらすのだろうか。権力が匿名であろうとなかろうと、そのような社会では歴史を作る主導権を(…)権力の思惑と利権に委ねてしまうことになる。

[フェルナン・デュモン『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 p.124]


ISBN:9784560092323

pp.123-4

歴史意識と政治意識は連動しており、歴史を記憶することと歴史に参加することは相互関係にある。(…)歴史が結論を控えるのは、歴史が解放をもたらすものだからである。このようにして、歴史は行為へと駆り立てるのである。

[フェルナン・デュモン『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 pp.123-4]


ISBN:9784560092323

p.113

消滅した文明が慣習の具体例を示していたとするならば、ネーションにおいては伝統がそのような慣習に依拠することはもはやありえないので、伝統の可能性は特殊的なものと普遍的なものの緊張関係に置かれるよりほかない。

[フェルナン・デュモン『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 p.113]


ISBN:9784560092323

p.112

コミュニケーションが拡張し、多国籍の経済的権力が地歩を固め、さまざまな文化が混ざり合い、いかにも世界の均一化が進みそうなものなのに、実は個別的な文化や限定された政治的圏域の権利*1要求が高まっているということだ。この反対の動きのなかに、社会の産出と、伝統の抵抗という二元性が認められるのではないだろうか。

[フェルナン・デュモン『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 p.112(傍線=傍点)]

ISBN:9784560092323

p.102

十九世紀のドイツの歴史家たちが、国の統一の前列となる歴史がないかを気にかけていたとき、彼らは細かな物語のなかに伝統を探し求めることに取り組んだのではなかっただろうか。

[フェルナン・デュモン『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 p.102]

ISBN:9784560092323

pp.100-1

歴史家は、それ*2をある背景とのかかわりにおいて再構成しているのである。(…)この背景とは何だろうか。それはより広範な歴史にして、この場合は語られない歴史ということではないだろうか。さらに言えば、それはより流動的なイメージによって示唆されるところの生成変化そのものではないだろうか。(…)かつてのキリスト教は終末論的な時間に依拠して出来事の実証的な説明をおろそかにしていたが、生成変化はこの終末論的な時間に取って代わるものでもある。古代人とは逆に、私たちはもはや背後世界*3を有していない。いや、むしろ背後世界がいまや歴史そのものになっていると言うべきかもしれない。

[フェルナン・デュモン『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 pp.100-1(傍線=傍点)]


ISBN:9784560092323

pp.91-2

アステカ人は、長いあいだある伝統を保持していた。それによると、ケツァルコアトルの神*4が髭のある白人の姿で舞い戻ってきたときに、彼らの文明は滅びることになっていた。やってきたのはスペインの征服者だが、一見彼らの伝統に合致していたので、彼らは何もできなかった。アステカ人は、敵の武力にもまして、自分たちの持つ記憶によって打ち負かされたのだ。

[フェルナン・デュモン『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 pp.91-2]

ISBN:9784560092323

*1:p.87,p.94

*2:「かつて存在した人間の生きざま、ある都市の過去、ある時代など」

*3〔ニーチェに由来する言葉。目に見える現象の背後に理想や真実が存在するという思想を、彼は「背後世界」と呼んで批判した〕

*4〔アステカ神話における農耕と文化の神〕