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読書ノート

2017-08-14

pp.124-7

もし今日の商品のなかに、商品であることをつき抜けた使用価値が内在していないとすれば、(…)労働者たちは、ただ労働力を消耗させているだけであって、労働に対する主体性も、労働の喜びや楽しさを獲得する余地はないということになる。それは労働者はロボットのかわりに働いているということである。

 しかしそうだろうか。(…)

 渡植(彦太郎)の提起は、(…)この合理的認識不可能なものをいかに認識するのかという点にあった。だから渡植はときにそれを「文化」という言葉で語ろうとしたのである。(…)

 ここで私はこのジレンマを破るべくひとつの提案を試みた。それは使用価値を交通概念、関係概念として把握するという試みである。労働生産物のなかに使用価値という固有の概念は存在していないと私は考えた。それは交通のなかでのみあらわれてくる関係的価値だったのではないだろうか。つまり(…)勝手につくりだすこともできないし、(…)勝手に発見されることもない。(…)交通するとき、その関係のなかでつくられてくる(…)それなら(…)交通をとらえることによって認識可能なのではないだろうか。

 それは渡植にとっても異存のないことであった。ところがこのような一致をみてしまったために、私たちは「世界観」の転換をめざさなければならなくなった。それは固有のもの*1が存在し、その関係が固有のもの同士の間に関係が成立するのではなく、はじめに関係が存在し、その関係が固有性をもつくりだしているという視点への転換である。(…)

 とりわけ市民社会論では、この視点は多くの人々の反発・批判を覚悟しなければならなかった。なぜならそれは、通俗的にいえば自立した個人、個の確立を大原則とし、その個の関係として市民社会はつくられるべきだという日本の近代思想と対立するものだったからである。私はそれを古典経済学と古典社会思想のつくりだした幻想だと考えた。むしろ逆に、市民社会の関係性が「個」という固有性をもつくりだしているのであり、私たちの目標は「個」の確立ではなく、関係性の改革だったのではなかったか。

[内山節『内山節著作集9 時間についての十二章』pp.124-7]


ISBN:9784540141331

*1:p.118