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読書ノート

2017-05-13

pp.098-100

倭人伝での「男弟有りて国を(たす)け治む」という記述(…)

稲荷山古墳出土鉄剣には、(…)大王に仕えたことが誇らしく記されている。その中に「左治」という二文字がみえる。

(…)この銘文から、私たちは、〝ワカタケル大王は飾り物で、実際の政治はもっぱらヲワケがしたのだ〟とか、〝本当の王はヲワケだった〟などといった議論をするだろうか。(…)なぜ同じ「佐(左)治」の語を眼にしながら、ヒミコは祭祀専門で実際に政治をしたのは「男弟」、と決めつけてしまうのだろう。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』pp.098-100]

ISBN:9784480062284

pp.096-8

ヒミコの行った外交は、(…)動機においても、(…)儀礼方式においても、ワカタケルと何ら異ならない。(…)

 帯方郡からの使者が「黄幢」をもって倭国に到った時、(…)もし彼女が生きていたとしたならば、中国王朝の後ろ盾を示す「黄幢」を掲げ、ヒミコ自身が率先して戦陣に臨んだと想定することは、それほど突飛なことだろうか。(…)七世紀後半、百済滅亡の危機に直面して、ヤマト朝廷がその総力をあげて百済復興救援の大軍を派遣した時、斉明(さいめい)天皇は六十歳を超す老齢にもかかわらず出征し、軍営を設けた朝倉宮(あさくらのみや)(福岡県朝倉郡)で亡くなった。そのころまでの倭国の伝統においては、男女・年齢をとわず、国の命運をかけた戦いに王が親征することは当然のことだったのである。

(…)呪術的祭祀にすぐれた能力を発揮することと、軍事指揮の先頭にたつこととは、男女をとわず、倭王として備えるべき資質だったとみるべきだろう。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』pp.096-8]

ISBN:9784480062284

pp.094-5

外国からの使者の前に姿を現さないということは、倭王の外交儀礼としてのゆるぎない伝統であったらしい。七世紀末~八世紀初、中国式に整えられた藤原宮(ふじわらのみや)大極殿(だいごくでん)で、文武天皇がはじめて外国使の前に姿を現して拝賀をうけ(『続日本紀』(…))、ここにやっと中国式外交儀礼が確立する。(…)

外国の使者にとっては、ヒミコも含めて、古い時代の倭王はみな〝見えない王〟だった。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』pp.094-5]

ISBN:9784480062284

p.086

当時の中国社会は、すでに徹底した男尊女卑・父系の社会だった。(…)「女には夫は何人いるか?」という質問を発することは、思いもよらなかったはずである。国家の造籍方針からはずれた婚姻関係・親子関係が、戸籍上では〝見えない〟のと同様に、男中心社会の見方に慣れた中国史家の手になる倭人伝では、男の側から見た「多妻」は書きとどめられているが、女にもあり得たかもしれない〝多夫〟の現実は、全く〝見えない〟ものとなっているのである。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』p.086]

ISBN:9784480062284

pp.083-7

一九五〇年代~六〇年代ごろの家族史研究では、戸籍の記載をそのまま家族実態と見なしてきた。しかし現在では、戸籍には租税収取・兵士徴発の台帳としてさまざまに作り替えの手が加わっていること、また、律令国家があらたに導入をめざしていた父系主義の原則で記載されているために、通い婚や、妻方居住婚等の実態はきわめて見えにくくなっていること、注意深く分析することで背後の実態がわずかに浮かび上がってくること、が明らかにされている*1

(…)

 戸籍については、何十年にもわたる大勢の研究者の努力によって、戸籍からは〝見えない〟関係が、少しずつ探り出されてきた。その場合、戸籍以外の史料には豊富に記録されている通い婚や妻方居住婚が、戸籍には一例も記載されていないのはなぜか、という疑問が解明への一つの手がかりとなった。倭人伝についても、その字面だけに視野を限定せず広く古代の婚姻関係全体を見渡せば、「大人皆四五婦、下戸或二三婦」への疑問が湧く

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』pp.083-7]


ISBN:9784480062284

pp.082-3

女性の性関係の相手が一人の夫に限定され、それ以外の関係をいわゆる密通・姦通として厳しい制裁の対象とする社会慣行が成立するのは、(…)平安後期以降のことである。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』pp.082-3]

ISBN:9784480062284

p.081

書物からわかる日本古代の婚姻は、妻問(つまとい)婚といわれるものである。ツマというのは、一対の片方をさす言葉で、男からみた妻もツマ、女からみた夫もツマである(この用法は、現在でも短歌の世界には残っている

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』p.081]

ISBN:9784480062284

pp.076-7

「辞を伝えて事を説く」場合に用いられた邪馬台国の礼法*2は、『旧唐書(くとうじょ)』倭国伝が、推古朝の冠位十二階のことにつづけて()訴訟(そしょう)する者は、匍匐(ほふく)して(すす)む」と記すように、統治の場における礼法として整えられていく。しかし、(…)「会同」の場における「大人」に対する作法*3は、これとは全く性格と歴史的背景が異なる。それが、倭人伝においてこのように二ヵ所*4に分けて礼法が記される理由であろう。(…)「会同」は、新たな統治体制のもとでの身分序列とは異質の、身分の区別の厳密な表示を必要としない、旧来の共同体的性格を濃厚に残す集会だったと推定されるのである。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』pp.076-7]

ISBN:9784480062284

pp.067-8

『魏志』には、「会同」の用例が八例あり、政治的会合、皇帝と臣下の宴会などをさしている。

そのうちの三例が東夷伝にあり、(…)

倭人伝では、「会同」の場に女も男と全く同様に参加し、「父子」の間でも、「男女」の間でも、そこでの着席順や行動のしかたに違いがないという。(…)中国の史書編纂者にとって、女も参加する倭人社会の集会は強い印象があったのだろう。高句麗伝に「男女」の字句がないのは、そうした政治的儀礼的場に男だけが参加するのは、中国史家にとっては当たり前なので書かれないのである。

[義江明子『つくられた卑弥呼─<女>の創出と国家』pp.067-8]

ISBN:9784480062284

*1(南部『日本古代戸籍の研究』)

*2:「「下戸」は「大人」に対しては後ずさりして道ばたによけ、ものを申し上げる時には、うずくまり地面に両手をつかなければならない」(p.075)

*3:「「搏手」をし、それで「跪拝」の代わりとする」(p.073)

*4:「習俗・自然・慣習法」の部と「統治体制」の部