2017-02-23
pp.100-1
歴史家は、それ*1をある背景とのかかわりにおいて再構成しているのである。(…)この背景とは何だろうか。それはより広範な歴史にして、この場合は語られない歴史ということではないだろうか。さらに言えば、それはより流動的なイメージによって示唆されるところの生成変化そのものではないだろうか。(…)かつてのキリスト教は終末論的な時間に依拠して出来事の実証的な説明をおろそかにしていたが、生成変化はこの終末論的な時間に取って代わるものでもある。古代人とは逆に、私たちはもはや背後世界*2を有していない。いや、むしろ背後世界がいまや歴史そのものになっていると言うべきかもしれない。
[フェルナン・デュモン『記憶の未来 伝統の解体と再生』伊達聖伸訳 pp.100-1(傍線=傍点)]
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