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読書ノート

2016-12-24

pp.96-100

 仁斎は、以上のような同然性の主張*1を、朱子学や仏・老荘批判とほぼ平行するかたちで展開している。(…)

「聖人は天下の同じく然る所に(つい)て道を見る。仏子は一人の心に就て道を見る。故に仏教者の道は一人の私説たり」(『日礼』49)(…)

無理にそうすればそう見えてくるという「意想造作」(観念・虚構)(…)それらは決して、現実を、また現実の人倫を捉えたものではないのだ、(…)

「智を用ひ(みずか)ら私」する、とはそのことであり、何よりそれは(おのずか)ら」に反するということである。(…)それはそこにとどまらず、その根底にある認識や思惟のあり方を共有するものとして、朱子学・老荘にも向けられている。(…)

そこで捉えられてくる他者や世界は、所詮己れ「一人の心に就て道を見る」という観念(…)――たとえそれがあるべき「明鏡止水」に達していようとも――所詮「一人の心」(=「一理」)同一のトレース「万物一原」)にすぎず、そこではいかに他者や世界に関わろうとも結局は、他者不在「己を以て己を修め」ることにしかならないではないか、(…)

しかもそのどこにも「帰宿する所」(「根」)を持たない「理」によって捉えられる現実や人倫は、所詮その「理」を語る人「一人の心」の、恣意的・私意的な延長にならざるを得ない(…)

つまりそれは言い換えれば、対象の抽象化・一般化ということであるが、その仕方が活き活きとした具体的実在を勝手に「死物」化あるいは「無物」(中62(…))するものであるかぎり、それは対象を離れた「意想造作」(観念・虚構)にすぎないというのである。

(…)「理に帰するときは、則ち自ら虚無に陥らざること能はず」(中68)

[竹内整一『「おのずから」と「みずから」——日本思想の基層〈増補版〉』pp.96-100]


ISBN:9784393312995

*1:pp.93-