Hatena::Groupbook

読書ノート

2014-03-07

pp.160-1

国家国民の行末を末永く決定するような重大な事実が、歴史のかなたに隠匿され、抹殺され、歪曲(わいきょく)されて、国民の眼を欺いたばかりでなく、後続の政治家、軍人、行政官をも欺瞞したことが、いかに恐ろしい結果を生んだかを、われわれは身近に見せつけられたのである。

 ある人はいう。(…)ことに情報の伝達が迅速になり、多様になり、密になり、自由になれば、われわれは、この惨禍から逃れ得るであろうと。

 だが、(…)マスコミ公害という新語を耳にし、また情報の偏向、コマーシャリズムの弊害を指摘されていることに再び不吉な予感を覚えるのである。

[石光真人編著「ある明治人の記録/会津人柴五郎の遺書」pp.160-1]


ISBN:9784121002525

pp.159-60

 維新の犠牲はその成果に比して過大であり、残酷であった。(…)革新側だけを考えてみても佐久間象山、吉田松蔭、横井小楠、坂本龍馬など視野の広い、知性高き指導者を失ったことによって、時代のバトン・タッチができなくなったばかりでなく、討幕、佐幕ともに太平になれた藩主の統制力が弱く、下級武士の武断派にリードされる結果となった。

(…)やむを得ない犠牲であったかどうか、(…)得ることが少なく、失うことの多かった革命ではなかったかの疑問が湧くが、(…)まず彼等は統一国家を求め、富国強兵の実現を第一目標として、「中国の(わだち)を踏まざること」(…)独立国として、植民地時代を生きぬこうと事を急いだものと思われる。

[石光真人編著「ある明治人の記録/会津人柴五郎の遺書」pp.159-60]


ISBN:9784121002525

pp.157-8

天皇を絶対者として神格化することは、維新に際して、むしろ排除した思想だったはずである。大久保利通は明治元年正月二十三日の大坂遷都建言書の中で(…)

 「主上と申し奉るものは玉簾の内に(おわ)し、玉体は寸地を踏み玉わざるものと余りに推尊奉りて、(…)ついに上下隔絶して其形今日の弊習となりしものなり」

(…)と力説している。しかるに、早くもその翌年には(…)天皇は神より尊しと説き、錦袖の陰にかくれて、威圧を加えたのである。

[石光真人編著「ある明治人の記録/会津人柴五郎の遺書」pp.157-8]


ISBN:9784121002525

pp.133-4

一部の心なき「()(もの)」が権力の座につき専横、浪費に明け暮れた激動の時代(…)折目正しい会津の教育を受けた少年の眼に映じた時代の相は、(…)旧幕時代の勤倹節約など忘れ去られたかのようであった。(…)やがて彼等は政商と結ばれ、財閥・華族とともに貴族趣味に走っていった。

[石光真人編著「ある明治人の記録/会津人柴五郎の遺書」pp.133-4]

ISBN:9784121002525

pp.20-1

 夏ちかづきて会津の四辺いよいよ急迫、敵軍狼藉の報しきりにいたる。(…)父兄語らざるも、余等幼き者の耳にも戦況伝わりて、悲憤やるかたなし。薩長の浪士、(…)世に不安の気をあおり、徳川の威信をきずつけ、討会の気勢をたかめんとする謀りごとなりと伝えらる。(…)

 後世、史家のうちには、会津藩を封建制護持の元兇のごとく伝え、薩長のみを救世の軍と讃え、会津戦争においては、会津の百姓、町民は薩長軍を歓迎、これに協力せりと説くものあれども、史実を誤ること甚だしきものというべし。百姓、町民に加えたる暴虐の挙、全東北に及びたること多くの記録あれど故意に抹殺されたるは不満に堪えざることなり。

[石光真人編著「ある明治人の記録/会津人柴五郎の遺書」pp.20-1]

ISBN:9784121002525

pp.18-9

三月ともなれば会津にも春の兆あり、鶯は例年のごとく里に来たりて鳴き、雪どけの水は流れて若葉陽光に輝き、つねに変らぬ風情なり。三月三日、ああこの日こそ、母姉妹とともに迎えたる最後の雛の節句となれり。例によりて雛段をしつらえ緋の布をしきて、内裏様、三人官女、五人囃子など華やかにならびて、小さきぼんぼりに火をともし、いまだ蕾かたき桃の枝を飾れるさまなど、いまも眼底に消えず。

「母上、内裏様は天子様なりと聞く、誠なりや」

と問えるに、母は余の眼を見つめてうなずけるのみなり。かく天子様を祭ること例年のごとくなるに、朝敵よ、賊軍よと征伐を受くる道理なしと胸中の怒りたえがたく、母に訴えんとせるも、母の固き表情を見てとどまりぬ。

[石光真人編著「ある明治人の記録/会津人柴五郎の遺書」pp.18-9]

ISBN:9784121002525

pp.81-8

漱石は不景気ただなかの「現代」と、そこに生きる中流の人々の人間関係をえがきつづけた。そしてそれこそが漱石を不滅の作家とした最大の理由であった。

(…)

 死の床にある漱石は、おのれの作品が百年読まれつづけるとは夢にも思ってはいない。自分が小説を書けなくなったその日から家族は生活に窮すると信じている。三十九歳の鏡子から八歳の次男伸六まで、合計七人である。

[関川夏央「『一九〇五年』の彼ら 『現代』の発端を生きた十二人の文学者」pp.81-8]

ISBN:9784140883785

p.76

東京に帰った漱石を驚かせた社会の変化のひとつは、女学生という階層の出現と、その独特の言葉づかいであった。

 江戸の残照のうちにあった明治中期までなら考えられもしなかった町娘風の(はす)()な口調が、女学生の存在証明とさえなっていたのである。

[関川夏央「『一九〇五年』の彼ら 『現代』の発端を生きた十二人の文学者」p.76]

ISBN:9784140883785

p.75

 創作は自分に向いている、書くことはたのしいと漱石は思った。それに較べて学校での負担は重すぎた。だいたい日本人に英語を教え、英文学を講じることの意味を見出しがたい。

[関川夏央「『一九〇五年』の彼ら 『現代』の発端を生きた十二人の文学者」p.75]

ISBN:9784140883785

pp.63-4

 一九四一年、露伴は七十四歳である。

 その十二月八日の新聞を、(…)目で追いながら、「ああ、若い者がなあ、若い者が」と叫んだ。(…)露伴は他の多くの文学者と異なって、日米開戦に開放感を味わわなかった。

(…)

 「あの年の暑さは別だった。あんなに人がみんな暑さを無気力に承服したのを見たことはない。焦土二年の悲しい暑さが、あの年の夏だった」(「菅野の記」幸田文)

(…)

 暑さは人を無気力にしたが、空は青く美しかった。そしてその平和な貧しさのなかで、日本人はつましい充足を願っていた。

[関川夏央「『一九〇五年』の彼ら 『現代』の発端を生きた十二人の文学者」pp.63-4]

ISBN:9784140883785

p.56

明治期キリスト教は、旧幕臣層や佐幕藩士の子弟によって多く支えられたのである。

[関川夏央「『一九〇五年』の彼ら 『現代』の発端を生きた十二人の文学者」p.56]

ISBN:9784140883785

pp.53-4

 なぜ明治文学をになう文人が同時期に輩出したか。

 彼らはみな江戸の残光を浴びて長じた人々で、その体質において江戸人であった。全員が幼時より漢籍を学び、和文と江戸文学に親しんだ。そして、その教養の上に思春期以降の洋学を積み上げた。

(…)新しいものをつくり出すには古いものを知らなくてはならないのである。

[関川夏央「『一九〇五年』の彼ら 『現代』の発端を生きた十二人の文学者」pp.53-4]


ISBN:9784140883785