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読書ノート

2017-09-06

pp.298-9

いわば、その人が暮らしている社会がもっている日常的な精神の習慣が、無意識のうちにその人に価値判断をおこさせるケースは、いくらでもあるといってもよい。(…)たとえば私たちは秋の紅葉した森をみたとき、それを(…)本当に美しいと感じているのか、それとも(…)美しいと判断するのが妥当だという意識をもっているから、この精神の習慣にしたがって美しいと感じているのか(…)実際、一年中紅葉しない森の近くで暮らしてきた知人が、はじめて紅葉した森をみたときの感想は、「気持ち悪い」だったのである。

(…)人間たちの間に価値基準の違いがあれば、同じ出来事が違った現実としてみえてくる。(…)ところがあまりにも日常的な精神の習慣にもとづいて判断しているものは、価値基準の違いが発生せず、そのためにだれもが同じ現実をみてしまう。しかも、だれもが同じ現実をみているから、私たちはそれが現実だと思い、本当にそれが現実なのかどうかを疑おうとしない

[内山節『内山節著作集9 時間についての十二章』pp.298-9]


ISBN:9784540141331

pp.294-5

マルクスが最初に就いた仕事は、「新ライン新聞」の記者であった。(…)そのこともあってマルクスは、哲学は現実から出発するという発想を、生涯手放そうとはしなかった。(…)現実から出発し、現実に返る認識のプロセスのなかに、思想や哲学の営みがあることを、彼は大事にしつづけた。そして、だからこそ、彼の哲学は現実と強く結びつき、現実に大きな影響を与える哲学として成立したのである。

[内山節『内山節著作集9 時間についての十二章』pp.294-5]

ISBN:9784540141331

2017-09-04

pp.289-90

 ここに、自然を手段とする社会と、労働を手段とする社会とが、同時発生した。

 そして、自然が経済の拡大のために無限の基盤を提供すると仮定されたように、労働もまた経済の拡大のための無限の「資源」でなければならなかった。(…)無限に利用できる自然を求めたのと同じように、無限の労働の利用をも求めていた。

[内山節『内山節著作集9 時間についての十二章』pp.289-90]


ISBN:9784540141331

2017-09-03

pp.276-7

 過去も未来も客観的に存在するものではないのである*1。現在がつくりだした過去があり、現在がつくりだした未来がある。(…)

たとえば過去の戦争を「正義の戦争」から「誤った戦争」へと変更することによって過去をつくりなおし、そのことによって現在と未来を「救済」*2するというようなかたちでも成立しうるが、現在や未来を救済したいのなら、現在がつくりだしている過去をも救済しなければならないのである。

(…)私たちにとって存在している過去とは、みいだされた過去、現在との関係をつくりだしている過去のことである。(…)同じように(…)客観的な未来はどこにも存在しない。存在するのは現在が描き出した未来だけである。

[内山節『内山節著作集9 時間についての十二章』pp.276-7]

ISBN:9784540141331

pp.270-3

村では過去がっていないのである。過去が現在のなかにみえているといってもよいし、過去が現在をつくりだしているといってもよい。(…)そこに暮らす人々の身体性や霊性=生命性のなかにつかみとられているのである。過去は過ぎ去った時間ではなく、現在のなかに存在しているといってもよい。過去との関係なしに現在の存在が成立しないのなら、過去は現在形で存在しているということになる。

 このあり方は村で聞く昔話でも同じで、村の昔話は、いまはない過ぎ去った過去の話、ではない。いまの何かを照射する話なのである。昔こういうことがあったという話が、だからいまこうなのだという現実と結んでいる。昔話もまた現在のなかで生きている

(…)現在が現れているからこそそれを支えている過去が現れ、現在が現れているからこそ未来が現れている。(…)そのすべてが現在のなかに現れ*3いる。

 それは過去、現在、未来のすべてが現在としてとらえられているということだ。つまり現在しか存在していないのである。とともに、そういう時間世界と関係をつくりながら生きている人々にとっては、過去、現在、未来はそういうものとして存在しているということである。

[内山節『内山節著作集9 時間についての十二章』pp.270-3]


ISBN:9784540141331

pp.265-6

時間存在の歴史を振り返るなら、人間たちが自然や共同体とともに生きていた時代には、循環する時間が主導的な役割をはたしていた。そのようなかたちで時間は存在していたということである。そしてそうであるのなら、過去や未来のとらえ方(…)存在のあり方も異なっていると考えたほうがいい。たとえば一般的には次のようないわれ方がされる。《昔の人々にとってもっとも大事な未来とは、死後的未来のことだった(…)》*4だがこう述べたとき気になるのは、こう語るときにも直線的な時間が前提になってはいないかということである。(…)

 もちろん生から死への変容はひとつの飛躍であり、その飛躍の先に死後的未来も存在する。その意味では、いまより「先」の出来事である。だがその「先」のとらえ方*5は現代人が感じているような時間の経緯であったのかどうか。そのことを検討せずに「死後的未来」という言葉を使うと、もしかすると私たちは大きな誤解をすることになってしまうのかもしれないのである。過去とは何か、未来とは何かということも、もう一度考察しなおす必要がある。

[内山節『内山節著作集9 時間についての十二章』pp.265-6]



ISBN:9784540141331

*1:「歴史学」「記憶術」(記憶の未来,p.24,pp.147-8)

*2:pp.266-

*3:「生きて」(p.271)

*4:戦争という仕事,p.208-

*5:古代王権論,p.56-