suneoHairWax::BOOK このページをアンテナに追加 RSSフィード

・買った本のリスト&読書中のメモに使います。
・まとまった感想・評価・批評などは本家で。
AmazonとBk1のアフィリエイト・リンクを同時に作成するツールを作ったので、使ってみてくだちゃい。
2004 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2005 | 01 | 02 | 08 | 10 | 11 | 12 |
2006 | 01 | 07 |
194121

2004-07-20-Tuesday

[]永井均『〈子ども〉のための哲学』(講談社現代新書)[AmazonBk1] 永井均『〈子ども〉のための哲学』(講談社現代新書)[Amazon|Bk1] - suneoHairWax::BOOK を含むブックマーク

永井均『〈子ども〉のための哲学』の前半部分をやっと読み終えたのだけど、事前に想定していた「おそらくこういうことを議論しているのだろう」という予測と、「おそらくぼくはこういう違和感をおぼえるだろう」という予測が、ほぼ的中してしまい、それならばそのことをここに書けばいいのだろうけれど、この的中した感覚が非常に無気味で、書く気になれないでいる。無気味で、そしてまた気分が悪くなってきた。

ねんのために書いておくと、「おそらくこの程度の期待の裏切りがあるだろう」という想定もあり、そしてそれも的中したので、その「裏切り」のぶんだけ「シンクロニシティ感覚」は脱臼している。つまりシンクロが無気味だったわけではない。また、ぼくのほうが永井さんよりも深く考えているだとか、深く哲学しているだとか、正しく考えているだとかいうわけではない。そういうことをいいたいわけではない。

荒く、ざっくりと素描しておくと、「なぜ永井さんは〈このぼく〉を哲学したのか、納得がいかない」ということだ。記述できない、言語ゲームからは逸脱している「なにか」の不思議さを哲学するとしたら――これはぼくの感覚だが――それは〈この〉性の哲学であってもよいはずで、〈このぼく〉の哲学であらねばならない必然性が、結局よくわからなかった。

「だって、その不思議さの感覚はまさしく〈このぼく〉において感覚されていることではないか」という反論をぼくは想定してしまうのだけれど(永井さんがそう答えるかどうかはわからない)、しかしこの反論は心理的な現象(感覚)に哲学の基礎付け(地盤)を置いてしまっていることになって、哲学的ディアレクティークには乗ってこないのではないかと思える。つまり「なぜ〈この〉ではなく〈このぼく〉の哲学であらねばならないのか」という問いへの反駁としては、水準が・階梯が異なっているのではないか。*1


このぼくの考えでは、言語ゲームから逸脱するような〈この〉性は、世界のどの〈点〉にも見いだしうるものであって、そしてその〈点〉は世界のどこにでも穿つことのできるものだ。ぼくはこの考えは野矢さんの「可能無限」の概念に親近性があると感じている。

はなしを元に戻すと、永井さんの本を途中まで読んだ時点で感じている無気味さ、気分の悪さのせいで、ぼくはなにか有意義な感想を書ける気がしていないのだった。再読が必要だと思う。

*1:しつこいが、永井さんがそのように主張・反駁しているわけではない

トラックバック - http://book.g.hatena.ne.jp/hidex7777/20040720

2004-07-05-Monday

[] 2004-07-05 - suneoHairWax::BOOK を含むブックマーク

社会史の系譜*1自体が社会史になっていて、面白かった。笑うとこなのにみんな笑わない。なぜだろう。やっぱりぼくはずれてるのだろうか。

*1:といってもニーチェとはなんの関係もない――というかニーチェが「遠近法的錯視」とよんだものを「系譜」といってしまっているわけだが。

トラックバック - http://book.g.hatena.ne.jp/hidex7777/20040705

2004-07-02-Friday

[]森本浩一『デイヴィドソン』(NHK出版) 森本浩一『デイヴィドソン』(NHK出版) - suneoHairWax::BOOK を含むブックマーク

言語は、それが少なくともふたりの人間の存在を要求する限りにおいて、社会的であることが示されたことになるだろう。(30頁)

『デイヴィドソン』

ぼくが社会学者だからなのか、狂信的ルーマン信奉者だからなのかわからないが、非常に抵抗を感じる一節だ。言語コミュニケーションメディアとしてしか言語であることはできない(他の在り方で言語言語であることはできない)。したがって「ある意味で」社会的だ。しかしコミュニケーションに人間の存在が要求されるという断言は前提に満ちている。「人間」なる意味(思想)は、心的現象においてゲシュタルト化される(あるいはゲシュタルト化という心的現象における)沈殿物にすぎない。少なくともコミュニケーションにとって=社会にとって人間は必要不可欠などではないし、したがって言語にとって人間は必要不可欠などではない。音声やエクリチュール(同じことだが)が言語コミュニケーションとして理解されるとき、それらを生成するのに必要なのは「肉の塊」のような物質的なものにすぎないし、<理解した>というカテゴリーが用いられるのは心的現象においてにすぎない。つまり「人間」の入り込む余地はない。

デイヴィドソンや彼が属する系譜において、そのあたりがどのように処理されているのか。今後の調査の課題である。

トラックバック - http://book.g.hatena.ne.jp/hidex7777/20040702