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2004-07-20-Tuesday

[]永井均『〈子ども〉のための哲学』(講談社現代新書)[AmazonBk1] 永井均『〈子ども〉のための哲学』(講談社現代新書)[Amazon|Bk1] - suneoHairWax::BOOK を含むブックマーク

永井均『〈子ども〉のための哲学』の前半部分をやっと読み終えたのだけど、事前に想定していた「おそらくこういうことを議論しているのだろう」という予測と、「おそらくぼくはこういう違和感をおぼえるだろう」という予測が、ほぼ的中してしまい、それならばそのことをここに書けばいいのだろうけれど、この的中した感覚が非常に無気味で、書く気になれないでいる。無気味で、そしてまた気分が悪くなってきた。

ねんのために書いておくと、「おそらくこの程度の期待の裏切りがあるだろう」という想定もあり、そしてそれも的中したので、その「裏切り」のぶんだけ「シンクロニシティ感覚」は脱臼している。つまりシンクロが無気味だったわけではない。また、ぼくのほうが永井さんよりも深く考えているだとか、深く哲学しているだとか、正しく考えているだとかいうわけではない。そういうことをいいたいわけではない。

荒く、ざっくりと素描しておくと、「なぜ永井さんは〈このぼく〉を哲学したのか、納得がいかない」ということだ。記述できない、言語ゲームからは逸脱している「なにか」の不思議さを哲学するとしたら――これはぼくの感覚だが――それは〈この〉性の哲学であってもよいはずで、〈このぼく〉の哲学であらねばならない必然性が、結局よくわからなかった。

「だって、その不思議さの感覚はまさしく〈このぼく〉において感覚されていることではないか」という反論をぼくは想定してしまうのだけれど(永井さんがそう答えるかどうかはわからない)、しかしこの反論は心理的な現象(感覚)に哲学の基礎付け(地盤)を置いてしまっていることになって、哲学的ディアレクティークには乗ってこないのではないかと思える。つまり「なぜ〈この〉ではなく〈このぼく〉の哲学であらねばならないのか」という問いへの反駁としては、水準が・階梯が異なっているのではないか。*1


このぼくの考えでは、言語ゲームから逸脱するような〈この〉性は、世界のどの〈点〉にも見いだしうるものであって、そしてその〈点〉は世界のどこにでも穿つことのできるものだ。ぼくはこの考えは野矢さんの「可能無限」の概念に親近性があると感じている。

はなしを元に戻すと、永井さんの本を途中まで読んだ時点で感じている無気味さ、気分の悪さのせいで、ぼくはなにか有意義な感想を書ける気がしていないのだった。再読が必要だと思う。

*1:しつこいが、永井さんがそのように主張・反駁しているわけではない

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