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2010-09-30

虔十公園林

09:47 | 虔十公園林 - 文庫野ばら を含むブックマーク はてなブックマーク - 虔十公園林 - 文庫野ばら 虔十公園林 - 文庫野ばら のブックマークコメント

虔十公園林

宮沢賢治

虔十はいつも縄の帯をしめて、わらって森の中や畑の間をゆっくり歩いているのでした。

雨の中の青い藪を見ては、よろこんで目をパチパチさせ、青空をどこまでも翔てゆく鷹を見つけては、はねあがって手をたたいてみんなに知らせました。

けれども、あんまり子供らが虔十をばかにして笑うものですから、虔十はだんだん笑わないふりをするようになりました、、、(本文より引用)

そんな虔十がある日一本の杉の木を畑の隅に植えます。そんな日陰に植えても育つはずがないとか、おれの畑が陰になるからやめろだとか、周りの人にいろいろいわれますが、虔十のお父さん、お母さん、それからお兄さんは虔十に協力して杉を植えるのを優しく手伝いました。

さて、それから何十年の月日が流れ、虔十は亡くなり、そのへんに新しい建物が建ち、鉄道も引かれました。ある日、虔十の村から出た偉い学者が故郷に帰ってきて、ずっと昔、虔十が植えた杉林を訪れました。今では子供達の素敵な遊び場所になっていたのです。

以下、本文から引用。

「ここはいま学校の運動場ですか。」

「いいえ。ここはこの向こうの家の地面なのですが、家の人たちがいっこうかまわないで、子供らの集まるままにしておくものですから、まるで学校の付属の運動場のようになってしまいましたが、実はそうではありません。」

「それは不思議なかたですね。いったいどういうわけでしょう。」

「ここが町になってから、みんなで売れ売れと申したそうですが、年寄りのかたが、ここは虔十のただひとつのかたみだから、いくら困ってもこれをなくすることは、どうしてもできないと答えるそうです。」

「ああそうそう、ありました、ありました。その虔十という人は少し足りないと私らは思っていたのです。いつでもはあはあ笑っている人でした。毎日ちょうどこの辺に立って私らの遊ぶのを見ていたのです。この杉もみんなその人が植えたのだそうです。ああ全くだれがかしこく、だれが賢くないかわかりません。、、、」

2010-09-28

虫づくし

07:41 | 虫づくし - 文庫野ばら を含むブックマーク はてなブックマーク - 虫づくし - 文庫野ばら 虫づくし - 文庫野ばら のブックマークコメント

虫づくし

別役 実 作

別役実という作家を知る人は、私の知るかぎり非常に少ない。

私が1人の作家について所有している本の数では、この人が一番多い。たくさん書いているが、全集は出ていない。従って、新しいのが出るたびに一冊一冊買い求めた。

この虫づくしは私がもっとも好きなほんの一つで、あまり愛読したために、最初に買った一冊はぼろぼろになって崩壊したので、改めて買い直した、というくらいに好きな本だ。

とにかく笑える。氏のづくしシリーズはとにかく笑える。

が、これを笑える人は、これまたごく少ないらしい。以前本好きの友人に貸したところが、「一体どこが笑えるの」と言われてしまい、以来人に紹介したり、ましてや貸したりすることはやめにした。もっぱらひとりで、ソファに寝そべって、ケラケラ笑いながら読むことにしている。

2010-09-24

天才バカボンのパパなのだ

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天才バカボンのパパなのだ

-別役実戯曲集

別役 実

三一書房

天才バカボンはいい。私は漫画というものをそれほど好まないが、天才バカボンは特別だ。とくにレレレのおじさんはものすごく好きだ。なぜといって、好きに理由なんか無い。

別役の戯曲は果てしない言葉の遊びだ。一本の電信柱(常に電信柱である)と、ほんの少しの小道具、そしてあまりにも日常的な言葉を発端として果てしない、別役的言葉世界が広がる。ほんの数人の登場人物が繰り広げる言葉のやりとりは、他の作品からは絶対に得られない楽しみがある。

別役の戯曲は演劇という形で、こぢんまりとした舞台で、多すぎない観客のもとでしか表現され得ない。人気の原作が映画化されたり、舞台で演じられたりと、様々な表現形態を取る中で、それが無意味でかつ不可能であるという点でも、別役の作品は際だっている。

さて、景観のために電線を地下に埋設しようという動きがあるが、言語道断だ。電信柱というのはいわば別役宇宙の核を成すものなのであり、従って、電信柱がなくなったら、いったいどうやって、別役は戯曲を書いたらいいのだ。それに、これは余談だが、犬だって困るではないか。

2010-09-21

妻を帽子とまちがえた男

16:10 | 妻を帽子とまちがえた男 - 文庫野ばら を含むブックマーク はてなブックマーク - 妻を帽子とまちがえた男 - 文庫野ばら 妻を帽子とまちがえた男 - 文庫野ばら のブックマークコメント

妻を帽子とまちがえた男

オリバー・サックス 著

晶文社

妻を帽子とまちがえる、そんなことあり得ない!

それがあるんです。

サックスの患者Pは優れた音楽家であり、それなりの業績も残していたが、ある時期から妙なことが起こり始めた。

町に設置してあるパーキングメーターを子供の頭とまちがえて、なでてやったり、ドアの取っ手に向かってやさしく話しかけたり、、、

しかし彼は精神に異常をきたしているのではない。脳の障害がそうさせているのだ。自分の足を見ても、それが靴なのか足なのかわからない。

脳は目から入る情報を処理してそれが実際に目に見えている物であると判断する。木が目に見える場合、それだけでは木が木であることがわかっていない、単にそれが目に映っているだけだ。その情報を処理して(過去の関連する記憶と結びつけるなど)木が木であることを判断するのは脳だ。

こんな風に、目から入る情報と認識できることとは直線的につながっておらず、これが関連を持たされて実物の認識となる。この関連性に問題が生じると、実際には無いものが見えたり、ある物が見えなかったりする。これは私たちがたまに経験する脳のいたずらだ。私が私であることも、外界の認識も、すべては脳が統治している。この統治能力が完璧なために、普通は何の故障もなく日常生活を送っているが、これが故障すると、全く別の世界が出現する。

2010-09-19

日本の名随筆「語」

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日本の名随筆「語」

井上ひさし

作品社

日本の名随筆「質屋」、「嘘」に続いて「語」を読む。井上ひさし編。編者でこの本を選んだ。

“「言葉について十章」宇野信夫”では、日本語が間違って使われていることについて苦言が呈されている。1988年の版だから今も昔も同じようなことが言われ続けているということが分かる。

が、私は言葉自体が形を変えるということよりも、言葉の多様性が無くなるということにむしろ嫌な感じを覚える。それぞれの地方にはそれぞれの言葉があり、あんまり地理的に離れていると意味がよく分からないほどに、その独自性があった。しかし今ではどうだろう。東北に行っても沖縄に行っても、いわゆる標準語(東京山の手で話されている言葉を基礎としたものらしい)が多く話されており、その土地固有の言葉を話せる人が少なくなっている。

すべての価値判断が東京を中心としたものになり、メディアが発達したことが手伝って、メディアが使用する言葉が、日本の隅々まで染み渡ってしまった。方言は絶滅しつつある。

方言を沢山知っているわけではないが、大好きな宮沢賢治の話を長岡照子の朗読で聞いたときはすっかり感激した。文字だけからではとうてい感じることのできない、抑揚豊かな岩手の言葉が、賢治の話をより彫りの深いものにしてくれた。

誰にも理解できる言葉の存在は確かに必要だが、一方で微妙な感情を豊に表現できる地方の言葉も是非維持したいと思う。標準語によって、こういう音楽的な、感情表現の豊かな地方の言葉が絶滅に追いやられるのは大変残念だ。

日々何気なく使っている言葉だが、どういう言葉を選ぶのか少し考えてみたい。できればごく個人的な言葉を使ってみたいと思う。

2010-09-15

日本の名随筆「質屋」

15:48 | 日本の名随筆「質屋」 - 文庫野ばら を含むブックマーク はてなブックマーク - 日本の名随筆「質屋」 - 文庫野ばら 日本の名随筆「質屋」 - 文庫野ばら のブックマークコメント

日本の名随筆「質屋」

作品社

人生観のある意味において、この質屋と高利貸しの味を知らざるもの世の中のことを語るに足らないと断じてもいい、、、

質屋の利息を勘定したり高利貸しに対して怨んだり怒ったりするあいだは、まだまだ世の中のある障壁を越えることが出来ない、、、ーーー以上「質屋」村上浪六

中にはお公家様でヒゲを入質した方もございます。ヒゲを入質した以上、お公家様はピント跳ね上がった八の字ヒゲを剃り落とさねばなりません。土倉(質屋)の主人は時々お公家様の所に出かけていっては生えかかったヒゲを剃ります。、、、

また、そのころの歌人で「つゆ」という言葉を入質し、秋の歌会で「つゆ」という言葉を使えず大変困った話もございます。ーーー以上「質屋今昔物語」志村益男

随筆を読むことはほとんどないし、これまで買ったこともなかったが、ツイッターで作品社がこの随筆集から質屋の一節を引用しており、その文が気に入ったので買ってみた。これが予想外に面白く、一気に読んでしまった。落語家から、歌人作家、画家、質屋の主人などなど30人ほどの、質屋に関係する話や、随筆を集めている。様々な文体を一冊で楽しめる上に、共通する話題についてのそれぞれの観点がしれるのも大変興味深い。

たまにはこのようなアンソロジーを読むのも楽しい。

2010-09-11

クラウド化する世界

10:35 | クラウド化する世界 - 文庫野ばら を含むブックマーク はてなブックマーク - クラウド化する世界 - 文庫野ばら クラウド化する世界 - 文庫野ばら のブックマークコメント

クラウド化する世界

ニコラス・カー

クラウド・コンピューティングとは、自分のPCとは別のところに自分のファイルを保存しておき、それをあたかも自分のPCにあるのと同じように取り扱ったり、自分のPC以外のところにあるプログラムを使用して作業したりすることができる状態をいう。こういうとどうも想像しにくいかもしれないが、例えばヤフーやグーグルが提供しているメール、カレンダー、スケジュール管理などのサービスはクラウドによって提供されるサービスだ。情報がPC本体に保存されておらず、まったく別の場所にある巨大なサーバーコンピュータに保存されているために、どのPCからでも、ネットに接続していれば自分のメールやカレンダーにアクセスでき、自由に情報を変更できる。

クラウド・コンピューティングという言葉はまだまだ一般的にはなじみが薄いが、わたしたちすべての行動に大なり小なり影響している。殊にネットユーザーは、おそらく意識することなく大きな影響を受けている。

この本はクラウド・コンピューティングが構築されるまでの背景を前半で分かりやすく解説し、後半では富の集中、労働市場の変化など、クラウド・コンピューティングがもたらしている影響について詳細に述べ、クラウド・コンピューティングがますます普及する中で私たちが意識しなければならないことについて教えてくれる。

最近はブログやHP、あるいは動画のアップロードを通じて私たちのようなごく一般の者が世界中の人々に情報を発信できるようになったし、また膨大な数の人がこのサービスを利用している。更に、ネット上ではこちらの好みや持っている情報(例えばお天気サイトで、私たちの住んでいる地域の実際の空模様を知らせるボタンが設置されるなど)を伝えるツールが急激に多くなってきた。雑誌のサイトではアンケートがあって、様々な質問に答えるよう要求される。

例えばアマゾンなどの本屋のサイトでは、自分が買った本の履歴を参考に、それに類した本が「おすすめ」としてグループ化されて、自分では探し得ないようなおもしろい本に出会ったりして大変有用だ。私が講読しているアメリカの科学雑誌は、ネットのHPで頻繁にアンケートを実施する。どの記事に興味があったか、これから読みたい分野は何か、雑誌への要望、などなど項目は結構多くて回答するのに20分程度かかる。アメリカ政府の官公庁のHPにも、ユーザーの意見を聞いて、要望に答えようとする姿勢がよく見られる。私は限られた省庁しか検索していないが、検索機能を使って記事を検索しても、見つからない場合は他のオプションを知らせてくれたり、見つかった場合でも、望みどおりのものが見つかったか、満足したか、などと聞いてくる。記事の終わりには必ず文章の責任者のメール・アドレスが記載されている。

このように、一昔前は情報を入手する機械であったコンピュータは今や、こちらから情報を発信する手段となった。もう一つの大きな変化は、ただで入手できるサービスが増えたことだ。ブログやHPも無料で開設できる。本屋の仮想本棚に自分の好みの本を並べることも無料でできる。多くの人がこの無料のサービスを便利に楽しんで使っている。しかしこのサービスを提供するには相当のコストがかかっている。なぜ無料なのか。そこには巧妙に仕組まれた商業的システムがある。そのシステムについては、知ってみるとなるほどとうならざるを得ないと共にほとんど感嘆するが、それは本で読んで頂くことにして、すべての物事が市場経済の論理の中で動いている世の中にあって、片方だけが利益を受けるということはあり得ない。私たちは無料のサービスを使う代わりに、自分の情報をただで提供しているのだ。しかし情報を受ける側はこれをお金に変える。こうして無料のサービスが提供されるわけだ。今や私たちは気づかないうちに、企業に奉仕している。

「ユーザーが作り出したコンテンツが商業化され続けている現状、、、これまでもボランティアは存在した。しかしいまや、以前とは比べ物にならないスケールで無給の労働者が有給の労働者に取って代わることができるのだ。」以上本文より引用

ニコラス・カーには他に次のような著書がある。

*ITにお金を使うのは、もうおやめなさい

*ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること

2010-09-09

母-オモニ

20:16 | 母-オモニ - 文庫野ばら を含むブックマーク はてなブックマーク - 母-オモニ - 文庫野ばら 母-オモニ - 文庫野ばら のブックマークコメント

母-オモニ

姜尚中

読後感 その一

この本の中で語られる母への旅は、他ならぬ姜尚中氏自身への旅だ。氏の以前の著書「在日」もこの本も、私は涙無しに読むことはできない。涙の所以はそこにつづられている辛く苦しい差別や貧困状態ではない。氏の自己同一性についての底知れない悩みと不安感だ。日本名と朝鮮名の2つを持つ人の、自分は一体何者なのだという、自分を一人の自分として同定できない不安。常に自分は何者かを問い続けなければならない存在の有り様。その深い、底知れない不安に私は動かされる。

・・・「永野鉄男か・・・。でも姜尚中じゃないか。どちらも本当の自分なんだぞ。ならばどうしてそんなに姜尚中から逃げてきたんだ。逃げなくてもいい、ありのままでいいんだ。ならば永野鉄男でいいじゃないか。いや、違う。それなら今までと同じだ。変わろう、変わるんだ」・・・本文より引用

氏は思春期にその不安の頂点を迎え、姜尚中という朝鮮名を名乗ることでひとまず決着を付けようとするが、この本を読んで、その後も自己同一性の問題が影を落とし続ける氏の人生を感じた。母の生き様を語り、母の故郷を訪ねることで、何とか自分のルーツを明確にしようとする姿に私は強く動かされた。これは氏が背負った運命であり、生涯を通じてこれと向き合わなければならないのだ。

これほど深刻ではないにせよ、私たちは常に自分とは何かを問い続けなければならない。自分自身と向き合い続けなければならない。そういう辛さを、この著書が端的に表しているような気がして、涙が出る。


読後感 その二

・・・とりわけ、息子たちにとって、母は「女」ではなく、あくまでも母でなければならない。息子から「男」になり、「女」と交わり、父親になってからも、息子たちは、母が「女」であったことを認めようとはしない。・・・本文より引用

本のタイトルのとおり、姜尚中の母親の思い出を、その人生と共に綴ったものだ。その語り口は物腰の柔らかい姜尚中氏の人となりがよく表れているようで、読んでいる間にも優しい気持ちになってくる。

人はいつの時代に生まれるか、どの国の人として生まれるか、どんな社会の階層に生まれるか、選ぶことは出来ないが、生まれ落ちたその環境で生きてゆくしかない。姜尚中の母親は朝鮮(今は韓国)人として生まれ、二十歳の頃夫と共に熊本に来た。その生涯の間に戦争、祖国分断、人種差別、それが引き起こす生活苦という不公正で残酷な運命の中を、ひたすら懸命に、自尊心を失うことなく生きた。

戦争や人種差別は個人の責任を問うことが出来ない要因であり、それがもたらす環境はいわば運命のようなものだ。今の世の中では想像することすら困難なほどの生活苦の中で、オモニは時に怒り狂い、時に大いに笑い、周りの人と助け合いながら、艱難辛苦を乗り越えてゆく。そのすさまじいまでのエネルギーが、柔らかな文章で語られる。

オモニは非常に喜怒哀楽の激しい人だったらしい。悲しみを表すときには転げ回るようにして表現した。肉親が亡くなると、太鼓をたたいて奇妙な踊りを踊り狂い、隣人たちからは頭がおかしいと思われていたという。

ここに描かれるオモニは姜尚中氏のオモニであり、例えば隣人らに映った春子(母の日本名)ではない。

人生をふり返ってそれがどのようなものであったかを言い表すとき、実際にあった事実は関係がない。それをどう捉えたか、それがその人の人生だ。そんなこともこの本を読んで感じた。

2010-09-06

Twitter社会論

08:59 | Twitter社会論 - 文庫野ばら を含むブックマーク はてなブックマーク - Twitter社会論 - 文庫野ばら Twitter社会論 - 文庫野ばら のブックマークコメント

Twitter社会論

津田大介

ツイッターというミニブログみたいなものが新しいメディアとしてもてはやされている。オバマ大統領が選挙に大いに活用したということでも話題になった。アナログ生活を送っている私も、こうもデジタル技術が席巻するようになると、知らないうちに私の暮らしを浸食しているかもしれない新しい技術やツールの正体を突き止めておかねばならない。

ツイッターというのは140文字限定で個人が自分のいいたいことをネットに投稿するというものだ。ツイッターというのは英語のさえずりに当たる言葉からとったもので、ツイッターの画面を開くと「いまどうしてる?」という問いかけが表示される。

このTwitter社会論は津田大介という若い著者が書いたもので、比較的冷静で客観的な意見を述べてあり、ツイッターの良い面も、それと同じくらいの危うい面も同じように論じていて、読む方は安心して読める。ツイッターの全体像をつかむにはとても良くできた本だ。ツイッターがどのように使われているか、著者のツイッター利用法、ツイッターの功罪などを例を挙げながら詳しく説明している。

ツイッターについては情報の伝播力が当初から大いに話題になっていた。この本でもその点に触れて、ツイッターの主要な力と位置づけている。例えば2009年1月に起きたハドソン川の飛行機不時着事故が、現場にいた一般人のツイッター投稿によっていち早く世界中にリアルタイムでその状況が伝わったなど、他にも類似の例が挙げられている。しかし、見も知らないところで発生した事件や事故を日本でリアルタイムで知るということにそれほど大きな意味があるのだろうか。私にはその即時性にそれほどの価値をおくことが良く理解できない。著者も本の中で、考える時間をおかずに発信することで発生する情報のゆがみや誤解の危うさについて述べている。

もうひとつ。ツイッターの画面に一度に表示されるのはせいぜい20ほどのつぶやきであり、それが数分ごとに投稿される場合には一時間ほどの間に投稿されたつぶやきしか見られないことになる。もちろん過去のログを見ることもできるが、いずれにしても発信された情報をその時に見られるような状態、すなわちPCを開いているか、携帯電話を開いているかしないと見ることはできないと思う。そういう状態で、ある出来事が瞬く間に世界中の知るところとなるということは、昼の日中に相当程度の人数がツイッターを見ているということになる。それも何か異常な気がする。

ツイッターの効用としてもう一つ挙げられているのが監視機能だ。多くの政治家がツイッターでつぶやくようになったこともあり、政策決定のプロセスを一般人が知ることが可能になった。そこでおかしいと思えるような政策には意見を述べたり、また、実際、経済産業省ではアイデアボックスという名でネットから意見を募集したりもしており、ツイッターにもアカウントを取得している。

伝播力といい監視機能といい、やはりそこで大きな問題になってくるのは情報の信頼性だ。その信頼性がよって立つ一つの要素は一定の時間の経過ではないかと思う。すなわち考えることだ。

この本の中に興味深い一節があったので引用する。

「ネット通販における大原則は“ユーザーに考える時間を与えたら負け”だからだ。ネット通販は、購入までの確認画面を一つ挟むたびに購入率が落ちていく。ユーザーは購入確認画面を見ているうちに“この商品は本当に必要なのか?”と冷静になる。」

2010-09-05

日本の名随筆「嘘」

20:45 | 日本の名随筆「嘘」 - 文庫野ばら を含むブックマーク はてなブックマーク - 日本の名随筆「嘘」 - 文庫野ばら 日本の名随筆「嘘」 - 文庫野ばら のブックマークコメント

日本の名随筆「嘘」

筒井康隆

作品社

嘘は事実でないことをいう。が、嘘が事実以上に物事の本質を表していることがある。

先の「質屋」がなかなかおもしろかったので続いて「嘘」を読んでみた。期待通り、これもなかなかにおもしろい。中でも澁澤達彦、別役実、井上ひさし、なだいなだがよかった。

別役は私の最も愛する作家で、この本に掲載されている作品「はなじごく」もすでに読んだものだった。「道具づくし」の中の作品である。別役の作品はどれも、注や後書きまで、作品になっている。このような作家は他に知らない。また、別役の作品はたいてい大嘘ばかり書いてあるが、それを読んで腹を抱えるにはそれ相当の知識が必要だ。事実との落差、または事実と形が似ていながら、ありえない内容がまことしやかに書かれている。事実を知ったうえで、その大嘘を読むときにだけ、その落差に大笑いできるのである。

別役には特別の愛着があるので、百万言を費やしたいところだが、あさっての世界の住人であると誤解を受けるといけないのでこのあたりで我慢することにする。

澁澤達彦、実はこの人の作品は2つほどしか読んだことはない。が、その文体に惹かれて印象に残っていた。今回の「嘘の真実」という内容と文章も心地よく楽しむことができた。そこにくっきりと澁澤達彦という人物が浮き上がって見えるような文章だ。

井上ひさし、この作家の作品は気になっていながらも一つも読んだことがない。ひょっこりひょうたん島という人形劇が昔NHKで放送されていて欠かさず見ていた。その作者が井上氏だと知って興味を惹かれたのはもうずっと前の話。その後「吉里吉里人」という作品が出版され、読むスピードと物語の進むスピードが同じになるように作られている、という井上氏の話でまた、非常に興味をそそられたが、いまだに読んでいない。この他にも井上氏がテレビ放送向けの作品を作るのをやめた理由を知ったときにも大いに関心を持った。

このような長きにわたる前置きの後、この随筆集に収めてある「原稿遅延常習者の告白」を初めて読んだ。さっと読めばそれだけで十分楽しむことができるその文章は、ごく細かなところまで気を配ってあり、あちこちにおまけが隠してある。何度読んでもそのたびに味わい、楽しめるような文章だ。緻密な構成と言葉の選択。一語たりとも読み逃すのが惜しまれるような文章だ。なぜ、今まで読まなかったのか。不思議だ。アンテナがぶるっと震える本はたいてい読んできたのに。次はきっと井上ひさしを読もう。

なだいなだ、この人は確か精神科医で奥さんがフランス人だ。「何が真実かについて」と題されたこの随筆ではフランス人の奥さんの、フレンチ・ポテトについてのこだわりを題材として書いている。これは先の井上ひさしとはまったく別の、ラフでおまけも一つもない、さらっと読んでおしまいという文章だ。が、これはまったく別の意味でとても楽しめる。魅力は文章でなく、その人生の姿勢と、たぶん文の速度感だ。